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特集/羽ばたく日本囲碁、キーワードは‘巨峰先生’
キム・ジョンミン記者(月刊囲碁) 2018-01-06午後11:50
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▲井山裕太。 [写真|月刊囲碁]


キム・ジョンミン月刊囲碁記者の[特集/羽ばたく日本囲碁、キーワードは‘巨峰先生’]をそのまま移してのせました。 






‘鯨の戦いで海老の背中が破れる’ということわざ(※訳注:強者の争いに巻き込まれて弱者が被害を受ける)。 ぴったり近ごろの日本囲碁を意味する言葉だ。

韓国と中国の血走るライバル関係に日本は間に挟まって、十数年間脇役の境遇を免れなかった。 世界大会で日本棋士に会った韓国、中国棋士は内心口笛を吹いたし、実際に世界ランキング上位圏で‘日’の字を見た最後の時がいつだったかボンヤリするほどであった。 

そして、日本に‘巨峰先生’が出現した。 彼の名前は井山裕太。

日本の新星と呼ばれて期待を一身に受けてきた彼は、その悪名高いAlphaGoにブドウの房を作って韓中強者を驚愕させた。 たとえAlphaGoに勝利をおさめられなかったが、内容は人工知能に挑戦する人間の中で抜群だった。 

そして、2017年11月15日、井山裕太は中国ランキング1位コ・ジェを破ってLG杯決勝に上がった。

日本棋士がメジャー世界大会決勝に進出したことは長々11年ぶり。 長かった悲しみぐらい日本全域が揺れた。 イ・セドルがAlphaGoに勝利した日にさく烈した歓呼ぐらい、日本では‘井山裕太’の名前が鳴り響いた。 日本の反撃が始まったのだ。 

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▲第22回LG杯決勝で井山裕太(右側)が中国のコ・ジェを破って決勝進出、日本の11年の恨みをはらした。 この日、日本はLG杯のニュースを大々的に報道した。 [写真|サイバーオロ]


過去になってしまった日本囲碁

世界最初の国際囲碁大会は日本が開催した富士通杯だ。 富士通杯は1988年4月2日、応氏杯は1988年8月20日に開幕したので強奪(?)として入ったが歴史的に最初の世界大会は富士通杯が合う。 

重要なことはなぜ日本が、台湾が応氏杯を準備する間、電子機器会社富士通をそそのかして大会を急造したかだ。 理由は宗主国のプライドだ。 もちろん囲碁が初めて誕生したところは色々な情況上中国である可能性が高い。 しかし、囲碁で地を作って王と領主の前で碁を打つために争碁を行って、文化として花を咲かせていった所は日本であることが明らかだ。 

あえて遠い過去ではなくても日本は世界囲碁の盟主であった。 最初の世界囲碁大会優勝者も日本国旗を付けた武宮正樹9段だった。

囲碁辺境国に過ぎなかった韓国はチョ・フンヒョン、ソ・ボンスなど強者が出場したが本戦1回戦で全員脱落。 武宮、小林、加藤、藤沢など日本を牛耳る棋士は当時無敵の威容を誇る‘アベンジャーズ’と違わなかった。

ところが、中国のニェ・ウェイピン(聶衛平)が現れてから日本の地位がふらつき始めた。

中国と日本が本格的に囲碁修交を始めた1985年、日本は‘中日スーパー対抗戦’を作ってちびちび這い上がる中国の鼻を平たくさせようと計画した。

方式は連勝戦。 ‘アベンジャーズ’の大部分が出撃するということはもちろんパーフェクト勝利を確信して、“もし敗れる場合全員断髪式を断行する”と大言壮語した。 

ところが、この大会は当初の意図とは違い、新しい英雄を誕生させてしまった。日本選手全員がニェ・ウェイピン1人に対抗できなくてぞろぞろ敗れて何と3年連続優勝カップを中国に譲り渡してしまったのだ。

優勝カップを渡されたニェ・ウェイピンがにこにこ笑って、“見てくださってありがとうございます。 僧侶になられる必要までありますか?”と言ったので、日本は血を吐く程大きい侮辱を受けてしまった。 

プライドに深刻な傷を負った日本は第1回富士通杯を持ちだして体面を整えるかと思ったが、山越えて山というか。

今度は弱小国韓国からチョ・フンヒョンという人が現れた。

自国では結構上手くいったりしたが韓国は単なるマイナーリーグではなかったか。 ところが、そうした彼が不意に‘囲碁オリンピック’応氏杯を優勝してしまったのだ。 それも日本の宿敵ニェ・ウェイピンを番碁勝負で破ってしまった。


その後、韓国はこれ以上日本の下ではなかった。 さらに、チョ・フンヒョンが育てた弟子イ・チャンホが虎として育って韓国の外に飛び出すとすぐに日本の位置づけはより一層小さくなった。

日本が誇る大棋士林海峰が、1992年第3回東洋証券杯で17才の高校生イ・チャンホに敗北して優勝カップを渡したことはいわゆる革命的な事件だった。

イ・チャンホ独裁時代の序幕を開いてくれた日本は、韓国では曺李師弟に砕かれ、中国では六小龍、十小虎にひかれて徐々に世界舞台脇役の身分になっていった。

2005年、第9回LG杯で張栩が一度びっくり優勝しただけで、十年間余り世界大会で惨敗した日本は長い沈滞の沼に落ちて抜けられなかった。 




関西から出た龍、井山裕太

韓国がワールドカップ真っ最中の熱気に酔っていた2002年、日本関西棋院ではある中学生が入段関門を通過した。 少年の名前は井山裕太。

1989年生まれで趙治勲がたてた11才9ヶ月記録には達し得ないが、棋力が平準化された近年で12才10ヶ月での入段はなかなかまれなことだった。 日本では大棋士林海峰と同じ記録の少年が誕生したとし、少し浮き立った記事が載ることもあった。 

大阪府、東大阪市で生まれた井山裕太は、5才の時父が買ったTVゲームで囲碁を習い、興味を感じたのか6才の時に石井邦生9段門下に入った。 1941年生まれである石井邦生は趙治勲、チョ・フンヒョン等のように派手な履歴を有していてはいないが、棋聖戦と名人戦本戦で活躍した中堅棋士だ。 

おもしろいのは石井邦生の教育方式だ。 わずか6才の子を家に連れてきて教えることは難しいことと判断した石井邦生は、当時普及し始めたインターネットを利用してみることを決心する。

各自の家でインターネットを通じて碁を打って電話通話で復碁をする形だった。 二人はそのようにしてインターネット対局だけでも1000対局を超えて打ったという。 師匠との対局を尊く思った日本囲碁界ではとても異例なことだった。 



その時、石井邦生の年齢は50代半ばでインターネットを利用して碁を打つことはかなりわずらわしかったはず。 日本囲碁黄金期に本戦メンバーならば収入も少なくなかったはずなのだが、石井邦生はなぜあえてインターネットまで利用しながら井山裕太と対局したことであろうか。 彼は井山裕太の囲碁を初めて見た時に感じた所感をこのように表現した。 

“6才の彼は碁盤の向こう側に手が届きにくいようで、椅子から立ち上がって石を打った。 すばやい手ですぐに反撃して大人たちを次々押し倒した。 実に驚くべき棋才であった。”

1997年、小学校2学年になった井山裕太は5千人が参加する少年少女全国囲碁大会に出場してびっくり優勝して話題になったが、翌年1998年にも連続優勝して神童と呼ばれた。

同年週刊碁の企画で山田規三生と三子記念対局を行ったがそれさえも勝利。 2002年には院生リーグ71勝8敗という驚異的な成績で入段に成功して林海峰9段と入段最年少2位タイ記録をたてる。 




新星誕生

同年2002年、日本囲碁界の雰囲気はかなり沈鬱だった。 世代交代に失敗した日本はイ・チャンホを前面に出した韓国と、チャン・ハオ、ワン・レイ、ルォ・シホなど‘六小龍’を前面に出した中国に苦戦をまぬがれなかった。

山田規三生、張栩など日本も若い強者がいないのではなかったが、圧倒するカリスマが不足した。 70~80年代全盛期を享受した趙治勲、小林光一がまだタイトルを保有して最前方で活躍していたほど。

このような状況で16才井山裕太が2005年第12回阿含桐山杯決勝で小林小林覚9段を破って最年少タイトル獲得記録を塗り換えてすい星のように登場した。

2007年に新人王戦を優勝し、2008年には日本第一人者張栩と第1回大和証券杯グランドチャンピオン戦で勝利、名人戦決勝では3-4で敗れたが互角の対決を広げた。 翌年2009年には竜星戦と名人戦二つの棋戦で張栩を連破して最年少名人に登板。 日本はいよいよ待ちこがれた新星が誕生したとし、歓呼した。 

しかし、浮かび上がる太陽があれば沈む太陽もある。 また別の天才として注目された山下敬吾は昇天する井山裕太のお供えになってしまった。

2006年、日本最大タイトル棋聖戦を優勝して一躍スターに浮び上がった山下敬吾は2009年まで棋聖戦4連覇に成功して、張栩と血みどろの第一人者争いをしていた。 

ところが、突然井山裕太という今しがた二十歳を越えた若造(?)が現れて、阿含桐山杯決勝でライバルとして現れると自分を倒して優勝カップを奪い取るではないか。

2011年に名人戦で復讐して、台なしになった体面を生かしたが彼は分からなかった。 2012年から井山裕太の全盛期が始まることを。

本因坊戦、名人戦、棋聖戦順に無惨に敗北、以後決勝にだけ上がれば向い側に座って笑っている井山裕太に6回連続決勝で敗れた彼は、2014年からタイトルと遠ざかったし結局1位競争から墜落してしまう。 




日本第一人者として君臨、しかし…

優勝、優勝、また、優勝…。 井山裕太の歩みはよどみなかった。

その上に好敵手として見なされた山下敬吾が敗退するとすぐに誰も彼が行く道を防ぐことはできなかった。

結城聡、河野臨などが挑戦状を飛ばしたが連戦連敗。 2013年には何と6冠王に登板するということと同時に7大グランドスラムを達成して名実ともに第一人者にのぼった。 

新鋭時期、5億ウォンだけ稼げばこれ以上望むことがないという青年の収入は2015年すでに10億ウォンを越えていた。

最多勝利、最多勝率、最多対局、連勝賞、最優秀棋士賞、秀哉賞、棋道賞など賞という賞は全てさらったし、2015年には41勝10敗で80%台の勝率を記録した。

2016年には日本囲碁界記念碑的な記録が誕生した。史上初の7冠王出現。 これに対し井山裕太は棋士最初に総理大臣(安倍晋三)顕彰を受ける光栄を享受した。 

しかし、歴代どんな棋士も果たせなかった7冠王を達成して日本の希望として浮び上がった井山裕太にもコンプレックスが存在した。まさに世界大会の成績である。

当時の雰囲気自体、韓国と中国が日本を一段下として取り扱っていたので世界大会成績は非常に敏感な問題であった。

井山裕太が執権して一定時間が過ぎても世界大会で明確な成果がないと日本では彼をさして‘国内用’ ‘温室の中の花’ではないかという言葉が流れ始めた。

そうだ。 ‘国内用’という言葉は第一人者の宿命。 チョ・フンヒョンも、世界囲碁を一人占めした彼の弟子イ・チャンホも草創期は国内用という言葉を聞かなければならなかった。

ファンたちは話す。 自国内棋戦を全て掻き集めたのなら、世界大会でもそうしなくちゃ。 なぜ国内だけ強者で、世界大会に出ると不甲斐ないのか? 

もちろん韓国野球選手がメジャーリーグで通じないということはない。 だが、世界で第一人者になるのは次元が違う問題だ。

国家の大幅な支援の下、絶えず新進強者の泉がわく中国、チョ・フンヒョン、イ・チャンホ、イ・セドル、パク・ジョンファン…世代をこえて天才棋士が誕生する韓国。 これらを全て倒すには日本の腰層はあまりにも老いぼれて、肩を押さえ付ける重圧感の中で井山裕太の孤独な戦いが続いた。 

2011年、井山裕太が富士通杯4強でパク・ジョンファンに敗れて3位になった時までだけでも雰囲気は悪くなかった。 2013年、早碁招待戦であってもTVアジア囲碁選手権戦を優勝した時、日本の期待は極に達した。

しかし、メジャー世界大会でいつも脱落して農心辛ラーメン杯など国家対抗戦でも特別な成果を出せないと期待はこの上なく失望のまなざしに変わった。 


このようになったところには日本棋院の消極的な政策も一役した。 日本の場合、国内棋戦優勝賞金がメジャー世界大会優勝賞金に匹敵する。

例えば賞金1位棋戦である棋聖戦の優勝賞金は4200万円で応氏杯40万ドルと似た水準。 これに対し日本棋院は国内棋戦興行のために井山裕太の1年スケジュールをあらかじめつかんで世界大会出場数を制限する閉鎖的措置を取る。

ここには実力よりはスケジュールのせいという弁解の種とともに、どうせ井山裕太が世界大会で優勝することは難しいだろうという緻密な計算が敷かれている。 日本自ら井山裕太の足首に鎖まで満たしたわけだ。 




‘巨峰先生’として新たに出る

日本が井山裕太を自国内にこちこちに隠していた時、反対に韓国と中国では井山裕太の実力を認めて警戒する声が多かった。

例えば韓国上位ランカーでも世界大会本戦で井山裕太に会えば難しい相手に会ったとし、難敵として対した。 

井山裕太は幼かったときインターネット碁を打って成長したためなのか、他の日本最高級棋士らと違ってインターネット囲碁サイトで対局を楽しんだ。 韓国と中国の強者らと粘り強くインターネット碁を打ったし、そのためか棋風も日本の美学的な指向よりは実戦的な手をたくさん駆使した。

そうしている間、2016年末頃、井山裕太は未知の敵を迎えることになる。 別名‘Master’というIDだったが中国のコ・ジェ、ミ・ウィティン、ファン・ティンウィ、韓国のパク・ジョンファン、キム・ジソク、パク・ヨンフンなどが飛びかかっても、ただ1敗も許さない怪物のような存在であった。 井山裕太は‘Master’というIDに対局申請をした。 

この対局で後日広く知られる形態が誕生する。 別名‘ブドウの房’というものなのだが実がふさふさなったブドウの房のように石がみな固く団結した形を意味する。

普通、プロの囲碁でブドウの房というのは、屈辱的な形態として通じるのだが井山裕太が‘Master’をそのようにした。

見物した観客の口を通じて‘Master’が不利だといううわさが広まったし、雲のように観衆が駆せ参じたが井山裕太はさらに押しつけることができなくて中押し負けとしまった。

何日か後、グーグルは‘Master’がAlphaGo新バージョンだったことを明らかにした。 

おもしろいのはこの囲碁を見物したユーザーを中心に井山裕太のニックネームが作られたのだが、これが‘巨峰センセイ’だ。

井山裕太が‘Master’を相手に作り出したブドウの房形態を誰かが、“これは普通のブドウの房ではなく‘巨峰’と同じだ”と表現したが、当時囲碁を興味深く見たユーザーが“AlphaGoに勝ちそうだった人は‘巨峰先生’だけ”とうわさを出して、韓国では井山裕太という名前より‘巨峰先生’というニックネームがより有名になった。

韓国ランキング2位シン・ジンソは、人間とAlphaGoマスターの対決中で井山裕太との囲碁を最も侮れなかった一局として選ぶこともあった。 





井山裕太がくる

AlphaGoマスターとの対決を基点に井山裕太のポジションが少し変わった。 世界超一流に近接した棋士から‘近接’が消えることになった。

おりしも2017年1月、韓中日第一人者を招待した賀歳杯が開かれたが井山裕太が1局で中国のコ・ジェを破るとすぐに雰囲気は一層高まった。 たとえ2局でパク・ジョンファンを抜いて上がってきたコ・ジェとのリマッチで敗れて準優勝したが、人々に世界ランキング1位コ・ジェに勝ったという強い印象を残した。 

もちろん屈辱の瞬間もあった。 囲碁人工知能‘DeepZenGo’を開発した日本が野心に充ちた大会ワールド碁チャンピオンシップで全敗をしてしまったのだ。

ワールド碁チャンピオンシップは人工知能(DeepZenGo)と人間が共に出場した最初の大会で韓国からはパク・ジョンファン、中国からはミ・ウィティンが出場してリーグ戦を行った。

DeepZenGoは強大な実力でパク・ジョンファンとミ・ウィティンを圧迫したが終盤戦で乱調を見せて逆転負けにあったが、唯一井山裕太との対決では完ぺきなヨセ(?)を披露して日本を当惑させた。 

この時の敗北が薬になったのだろうか。 2016年に続きもう一度7冠王の偉業を再現した井山裕太は勢いに乗って2017年5月から行われたLG杯本戦でイ・ヨング、ジョウ・ルイヤン、ヤン・ディンシンという難敵をぞろぞろ破って準決勝に上がった。

準決勝相手は世界ランキング1位コ・ジェ。 この対局で井山裕太は予想を跳び越える盤面運びでコ・ジェを制圧して、生涯最初のメジャー世界大会決勝進出に成功する。 

日本としては何と13年ぶりに味わう世界大会決勝進出。 日本列島は興奮のるつぼに陥ったし囲碁ファンたちはずっと井山裕太の名前を叫んだ。

決勝相手は中国の新進強豪シェ・オルハオ。 同じように世界大会決勝進出は初めてだ。 だがコ・ジェやパク・ジョンファンと競ってきた井山裕太が不利だと考える人は誰もいない。 

三星火災杯は中国が、夢百合杯は韓国優勝が確定した状況で、井山裕太が優勝するならば実に久しぶりに韓中日三ヶ国が並んで世界を分け合うことになる。

日本から韓国に、再び中国に向かった世界囲碁覇権はどこへ向かうことになるだろうか。 

井山裕太の飛翔、そして13年ぶりに世界大会優勝を控えた日本。 LG杯結果は2018年2月になってこそ分かるだろうが、一つだけは明らかなようだ。

1989年、チョ・フンヒョンが応氏杯を制覇した以後韓国が、90後世代が出現してからは中国がきた。 そして、井山裕太が世界大会を制覇するその日、日本がくる。 



原文記事:CYBERORO