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原文記事:タイゼム - 大韓民国1位囲碁サイトTYGEM.COM囲碁人生58年、'戦神'チョ・フンヒョン白髪混じりの62才チョ・フンヒョンの囲碁の話
▲チョ・フンヒョンは今まで2700対局を越える対局を行い、そのうちの1900対局程度に勝った(写真=イ・テギョン記者)."15才囲碁神童、師匠曹薫鉉折った。"1990年2月3日、全国朝刊新聞にいっせいにこのような内容の記事がのせられた。 その時期'囲碁皇帝'チョ・フンヒョン(当時37才)の名前が新聞に登場するのは日常茶飯事だったが、この日のニュースの主人公は彼ではなかった。 スポットライトは弟子イ・チャンホにあふれた。 前日開かれた第29期最高位戦でチョ・フンヒョンはイ・チャンホに半目差で負けた。 二人は沈黙の中、同じ車に乗って共に家に戻った。当時イ・チャンホはチョ・フンヒョンの内弟子(内弟子=師匠と一緒に暮らして習う弟子)で7年一つの家に住んでいた。 何ともないように直ちに寝床についたがチョ・フンヒョンの心は複雑だった。 弟子に負けたという苦痛と弟子をよく育てたという喜びが同時に押し寄せた。チョ・フンヒョンが'囲碁オリンピック'と呼ばれる応昌期杯で中国のニェ・ウェイピンを折って'囲碁世界チャンピオン'に登板、金浦(キンポ)空港から鍾路(チョンノ)までカーパレードをしながら行進を行ったのがつい5ヶ月前である1989年9月だった。 最上に上がった直後に味わった敗北と彼が感じた落差はより一層大きかった。一度滑るとすぐに墜落するのは一瞬だった。 その後、師匠チョ・フンヒョンは弟子イ・チャンホにその都度負けた。 1990年9月国手戦では3対0で負け、1991年には大王戦、王位戦、名人戦などタイトル三個をイ・チャンホに奪われた。1991年末になるとすぐにイ・チャンホは7冠王にのぼり、チョ・フンヒョンは4冠王に落ちた。 1995年2月彼はイ・チャンホに最後に残った大王タイトルまで全て奪われた。 1974年最高位戦で優勝して20年で彼は何のタイトルもない無冠の境遇に転落した。"ところが不思議だった。 その日の夜、家に戻るのに不思議に心が平和だった。 あらゆる事をなくしたのに変に気楽だった。 何日間か思い切り寝て起きたところ新しい世界が目の前に繰り広げられるようだった。 '持っていないからこれ以上下がることはない。 もう上がることだけ残ったものよ'肯定的な考えが胸中でむやみにわき上がった。"去る16日ソウル、平倉洞(ピョンチャンドン)自宅、白髪混じりであるチョ・フンヒョン(62)が安らかな表情で笑った。 右側頬にえくぼが見える。 綿のズボンに南方シャツ姿の彼は盤上を号令する鷹として轟かせた勝負師というよりは温和な老学者のように見えた。チョ・フンヒョンは今まで2700対局を越える対局を行い、その中で1900対局程度に勝った。 ところが"不思議に勝った対局より負けた対局の方がさらに記憶に残る"とした。 応昌期杯のような世界的な囲碁大会で勝利した喜びより弟子イ・チャンホに半目差で敗北した記憶がもっと大きいということだ。 彼は敗れた時の所感と悟りを振り返って最近エッセイ集'チョ・フンヒョン、上手の考え法'を出した。▲チョ・フンヒョンが直接書いた揮毫無心.
囲碁界であなたに付けた別称が'戦神'だ。'戦いの神'が勝利より敗北をさらに長く記憶するとは意外だ。
勝てば後悔がない。 結果が良いことだから。 負けるのは違う。 負けるには必ず原因がある。 痛かったり、'怠け者'であったり、精神的な衝撃があったり…. なぜ負けたのか考えて後悔して次の対局のために新しい確約をしてみるならばどうしても勝った対局よりは負けた対局に対してさらに長く考えることになる。真っ盛りの年齢である37才の時、15才の弟子イ・チャンホに敗れて下り坂を歩き始めた。みじめでなかったか。
衝撃が大きかった。 当時私は最高手であった。 負けると考えて見たことがなかった。 互いに碁盤の上で'殺すか生かすか'とする間なのだが毎朝家を一緒に出るのも苦役だった。 1991年チャンホが独立して出て行った。 その頃チャンホと試合をするときは大変で倒れる状況になったりした。 カメラが見守っているのにも関わらず椅子にほとんど横になって寝た姿勢で碁を打った。
メディアではこれを'臥棋(横になって碁を打つ)'としておとなしく表現したが、事実私はチャンホを防御するのにからだが崩れ落ちる状況だった。 私が積んだすべての貫ろくと経験が若さの力と覇気の前では無気力だった。 若さが最も恐ろしい。囲碁は'思惟の勝負'ではないのか。年を取るほどかえって手を見通す理由も深くなるはずなのだが若い人に押されるというのが理解し難い。
(笑って)私も理解がいかない。芸術では年齢が重要だが囲碁には妙に体力的な事がある。決まった時間内に勝負を出さなければならないのでその時間内に自分の中のあらゆる事を引き上げることができる体力が必要だ。新しい技術を習得するのも年を取るほど大変だ。10代の時はスポンジで吸い込むように受け入れて、20代の時、絶頂に上がることになる。 以後では頭がよく戻らないといおうか、なかなか積もらない。
私でも昔には新手が出てくれば一人で体得したがこの頃は後輩に尋ねて実らせる。 ところが背を向ければ忘れる。 精神力も違いが生じる。
10代の時は夢の中でも囲碁のことしか考えない。 ところが20代になればどうだろうか。 酒の考えも出て、金儲けの心配もしなければならなくて…. その上にデートでもすることになったら相手の女性が美しく見える。 '明日また会わなければならないが、どのようによくしようか'と考えることになるのが青年として当然ではないか。 100%囲碁にだけ専念する人と、他の考えが多い人が正面対立するならば年齢が幼くても集中する人が勝つことになっている。それでもすべてのタイトルをみな奪われるとかえってさっぱりしたといった。
生きようとそうしたんだろう。 ずっと苦痛と怒りに包まれていれば死ぬ道しかないから心がそのように決めたようだ。 一方で囲碁を愛していたのでそうしたことだ。 チャンホに負けたといって私が一生を捧げた碁を置いて別の道を行くことはできないではないか。 顧みれば当時そのように決心したのがこのように私に多いに役に立ったようだ。
困難な状況で'私はダメだ'と挫折してしまえば今後出て行けない。 私が当時'私は終わりだ'としたとすると人生が壊れたかも分からない。 '今後は取ることだけ残った'と心を変えたので再起が可能だったようだ。人生に対する態度が変わったことなのか。
そうだ。 実際に皆なくしたら自由だった。 無冠になった後、以前よりさらに熱心に大会に出て行った。 1996年の一年間だけで110局を行った。 三日に一回碁を打ったもようだった。 以前のようにタイトル防衛者としててっぺんで挑戦者を待つのでなく、本戦から始めてトーナメントをすべて経験して上がらなければならなかった。 以前にも勝って負けるのを繰り返したが勝敗に本当に超然とするようになったのはまさにこの時点からだった。 数多くの対局を戦って私は私がいつでも負けることができる人という事実を受け入れることになった。
チョ・フンヒョンは1998年国手戦で挑戦者でイ・チャンホと再び正面対立した。 結果はチョ・フンヒョンの勝利であった。 彼は"チャンホに勝つのが重要なことではなかった。 ただ再びトップに上がることができるというのが重要だった"と話した。▲チョ・フンヒョンは"若い時期の私は敗北が嫌いだった。泣いたことはないが泣きたかったことは多かった。囲碁に負けた日なら一人で夜道を歩いて疲れる頃に家に入ったりした"と。
チョ・フンヒョンは囲碁神童だった。 1957年全南(チョンナム)、木浦(モクポ). 満4才のチョ・フンヒョンが、いとこの姉の夫と碁を打っていた父の手を防いで"お父さん、そこに置いてはいけません!"と制止した。 '子供が何を分かるか'と言った父は、後ほど復碁をしながらすぐに息子が防いだその手が敗着に近い手だったということを知る事になった。
もしやと思って碁石を与えたところ子供チョ・フンヒョンは誰も教えなかったのに地が多ければ勝つという囲碁の道理を正確に理解していた。 すぐ父に勝つことさえした。 いつのまにか木浦(モクポ)に'囲碁神童'についてのうわさが広がった。1958年冬、父チョ・ギュサンはチョ・フンヒョンを連れて上京した。 今しがた結婚した長女の普門洞(ポムンドン)貸間に臨時の住みかを定めて、息子の手を握って当時韓国囲碁の中心だった明洞(ミョンドン)の松院棋院に毎日出勤した。
当時の松院棋院の主人は韓国現代囲碁の大物として通じるチョ・ナムチョル(1923~2006). 木浦(モクポ)から来た囲碁神童に快く指導対局を許諾したチョ・ナムチョルは二対局を相次いでおいてチョ・フンヒョンの棋力をテストした後'強い8級'として級数を認めた。 上京して4年が過ぎた1962年10月、チョ・フンヒョンは9才の年齢で第16回プロ入段大会を通過して世間の耳目を集めた。4才にしかならない子供が一人で囲碁を悟る事がどうして可能だったか。
私も気になる。父が碁を打つのを偶然に見て'包囲されれば死んで、地の内側が生きる'ということを悟ったようだ。音楽分野でも自ら悟る神童がいるのではないか。私もそのような場合ではなかったのだろうか。集中時間が短い子供が囲碁に没入できたのは勝負欲のためだったか。
勝ちたいというよりは強くなりたかったというのが合うだろう。 簡単に考えてみよう。 多くの子供が小学校に入学すると一日に4時間でも6時間でも勉強をする。 その中で本人が好きな科目ができれば没頭して、全校1等にもなることだ。 私の場合には好きな科目が囲碁だったわけだ。少年プロ棋士の誕生のニュースに後援者が熱狂した。 囲碁界元老イ・ハクジンがチョ・フンヒョンの日本留学を推進した。 1963年10月チョ・フンヒョンは日本に発った。 航空料は朝鮮日報社で負担した。 チョ・フンヒョンの日本の師匠は当時74才であった瀬越憲作(1889~1972). 現代日本囲碁を胎動させた英雄と評価される人物だ。 チョ・フンヒョンは瀬越の最後の内弟子として9年間彼とともに生きた。▲ 10才の時である1963年、朝鮮日報に日本留学のニュースを知らせた'少年棋士チョ・フンヒョン'在日同胞後援者がお世辞で入門を求めたが瀬越が二対局を置いてみた後、弟子としたと聞いた。瀬越からは何を習ったか。
囲碁よりは心がけを習った。 先生は私に'上手になる前に人にならなければならない'と言った。 人になるためには人格、性格、人柄を全て備えなければならないと常におっしゃった。
先生が禁じた賭け碁を打って破門されるという事もある。 幼い時はずっと'人になれ'と言うので内心'私が人でないならそれでは獣'と思ったりもしたが、年を取ってみると先生の意が分かる。
こざかしい策を使うプロ棋士が墜落するのをたくさん見た。 いくら実力が良くてもトップの重さを耐え抜くほどの性格がなければ少しの間のぼってもすぐに震えることになったよ。
瀬越は弟子を一生でちょうど三人だけとった。世界囲碁の流れを変えたと評価される中国の呉清源と日本の囲碁天才橋本宇太郎、そしてチョ・フンヒョンだ。
先生はいつもおっしゃった。 '二流は佗びしい。 クンゲン(フンヒョンの日本式発音),君がこの道を行くことにしたとすると一流にならなければならない。 そうでなければ人生がとても哀れだ。'
先生が弟子をただ三人しか受けないのもまさにこのためだった。 かわいそうな人生を作るかと思ってただ一流になる人だけ選んで受けられたことだ。
瀬越は1972年チョ・フンヒョンが兵役問題で帰国して4ヶ月で自ら命を絶った。 友達と後輩に残した遺書に"韓国に発ったチョ・フンヒョンを必ず日本に再び連れてきて大成させることを望む"と記されていた。韓国に帰ってきて軍入隊を待ったチョ・フンヒョンがある日"棋院に行かなければならないから交通費をくれ"と言うと母の顔に慌てた光がかすめた。 母がお隣りから借りてきたお金でタクシーに乗って出て行ったチョ・フンヒョンは'私が稼がなければならないんだな'と悟った。 チョ・フンヒョンは"その時周りを見てみると家に金を稼げるほどの人が自分だけしかいなかったよ。 まさにその瞬間囲碁が私の仕事であり、それで金を稼がなければならないという事実が深く染みた"と言った。
入隊直前釜山(プサン)日報で主催する最高位戦に出場して優勝した。当時の賞金がかなりだったはずなのだが。
30万ウォン程度だったが当時では大金だった。 その金を全部母に差し上げた。 ちょうど妹が美大に合格して登録料や、画具などお金がかかることが多かったが家計にかなり助けになった。 その後私は生計のために碁を打たなければならないという事実を一時も忘れたことがない。生計のために碁を打つとは?
"プロというのは勝って金を稼ぐ人だ。 一勝負でも勝ってこそお金になる。 子供として、結婚した以後には家長として責任を負うべきなのだが私には囲碁しか方法がなかった。 勝ってこそ余裕ができた。 その責任感のためにさらに熱心に置いて、そうしたら良い結果が出た。最終的に囲碁も生計という話なのか。
職業というのは基本的に生計のためのものだ。 私が囲碁を熱心にしてタイトルが一つずつ積もって行くたびに家の状態が少しずつ良くなった。 両親は市場で野菜商売をし、セメント ブロックで作った貧民街のとてもみすぼらしい家で生活した。 そのようなに貧しい家の子供であった私が囲碁を通じて私の領土を広めていってだんだん人生の領土も広くなった。
貧民街で、禾谷洞(ファゴクトン)洋館で、延禧洞(ヨニドン)2階洋館で、そして今の家に移ってくることができた。 努力しただけさらに多く持って、より良いものなどを享受することができるということぐらい最も確実な動機付与があるだろうか。職業を自我実現のためのものだと見る人もいる。
していることと、したいことが違って大変だと話す人々がいる。 これらに'それではしたいことをすると良いではないか'で言うと、'直ちにどのように暮らすかが広く漠然としてできない'と言う。 このように夢と現実の間で心をつかむことができない人々に私は'より重要なことは食べて生きること'と言いたい。
先に暮らすところから突き抜けなければならない。 生計が詰まれば夢であれ何であれ、できない。 汚らしくてみすぼらしく感じられるかも知らないがそれが現実だ。
チョ・フンヒョンは昨年人気の下に放映されたTVドラマ'未生'で主人公チャンの夢の中で師匠としてびっくり出演した。 彼は"'未生'を見ると生き残るということは碁盤の上でも、社会でも容易でなかったよ"と話した。'未生'の主人公チャンは毎日退勤後一日を復碁する。囲碁で'復碁'というとどんな意味がある行為なのか。
復習であり未来のための設計だ。 勝利した対局の復碁は勝つ習慣を作って、敗北した対局の復碁は勝つ準備を作る。すでに勝負が決まった対局を再披露するというのは容易なことではない。
負けた人は辛い。 それが復碁の最も難しい点だ。 プロ棋士の場合負けて勝つことが日常だとある程度は免疫になっているが、人である以上容易ではない。 第三者の目で揺れることなく対局を眺めることだ。 '無心'で復碁しようとするが容易なことではない。 そのような心がけを持つだけだ。座右の銘がまさに'無心'だ。どういう意味なのか。
私心なく置くこと。 とても難しい境地だ。 勝つべきという考えさえしてはいけない。 ただし最善を尽くして臨むことだ。 最善を尽くして平常心を持って試合に臨んでみるならば良い結果が出る。'天才'という世間の評価を何度も否認した。
私だけでなく'天才'と呼ばれた人はたいてい'君は天才か'と尋ねれば絶対ではないという。多分自分は自分をバカだと考える。謙虚なことではなく'天才'という呼称がふさわしい程自身に満足できないのでそうなのだ。今後どんな碁を打ちたいか。
トップから降りれば勝負師としては終わったことだ。私が頂上にいるならば'今後これこれな碁を打ちたい'という話をすることができるだろうが、今はむだな話だ。かと言ってすべき仕事がないことではない。囲碁を普及させて、器用な子供がひょっとしているならば一、二人ぐらい育てたい。チョ・フンヒョンは"4才で囲碁を始めて他の道を知らないから方向を定めることもできなかった。 60を越えた今でも時折'平凡な生活を送ったらどうだったのだろうか'と考えるがただ過ぎ行く夢だけのことだ"として笑った。あなたにとって囲碁とは何か。
"人生の道であるようだ。 囲碁を通じて人生が何かを知るようになった。 私にとって囲碁は道だ."
上の記事は6月19日付朝鮮日報クァク・アラム記者による「世界最強囲碁人生58年… '戦神'チョ・フンヒョン」をそのまま移しました。
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