【盤上の香り]呉清源の想像超越新布石、日本の囲碁300年揺るがす - プライベートコラム() - 中央日報オピニオン 

[盤上の香り]呉清源の想像超越新布石、日本囲碁300年揺るがす

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1962年第1期名人戦リーグ最終局で呉清源(左側)と坂田(右側)が終局直後、棋院関係者たちに囲まれた姿.[写真日本棋院]

 

人間ならば聞きたい単語がある。 ‘神通’. 聞きたいだけだろうか。 ほしい能力だ。 2500年囲碁歴史にただひとり、神通に符合する人がいる。 呉清源(1914~)だ。

しかし彼は名人にはならなかった。 1962年8月5~6日初代名人を選ぶ第1期名人戦本戦リーグ最後の対局. 場所は東京の福田家. 橋本昌二(1935~2009)と藤沢秀行(1925~2009)の対局と呉清源と坂田栄男(1920~2010)の対局. 藤沢が勝てば10勝2敗で1位が確定しなければ同率になる。 呉清源と坂田二人とも8勝3敗であった。

各自10時間の二日かける対局で藤沢は二日目の午後早目に敗れた。 坂田が優勢だと聞いた藤沢は銀座夜道に出て行った。 宿敵坂田との再対局を予想して単独で酒を飲んだ。 最後の対局の局勢は妙に流れた。 深夜、地を埋めてみると黒を捉えた坂田が盤面5目を残してジゴになった(コミ5目). 77局を終える時までひと勝負もなかったジゴが78局で最後の対局に現れたのだ。 ジゴは白勝という規定があって呉清源が勝った(写真).

しかし‘ジゴ勝ちは勝利にあらず’で、勝利には至らないという規定もあって同じ9勝3敗だが藤沢がリーグ1位で名人になった。 藤沢は酒に思う存分酔った明け方に知らせを聞いたし、呉清源の師匠瀬越憲作(1889~1972)はなげいた。 “呉清源は結局名人にならないみたいだ!”



一度みた定石を忘れずに新しく解釈
 
名人にならない呉清源. 彼の一生はどのようだったか。 単純に羅列しても考え方の革命と論理と哲学の結合、自由な精神などが分かる。

先に彼の少年時期. 1914年中国、福建省で生まれた呉清源は六才の時お父さんの呉毅(?~1926)に囲碁を習った。 呉毅は日本留学時代囲碁を知った。 左側親指が曲がるほど本を読んだ少年呉清源は才能が抜群だった。 一度みた定石を忘れないのはもちろん新しい解釈までやり遂げるほどであった。 北京にはライバルがいなかった。

ニュースは日本にまで広がった。 1927年井上孝平(1877~1941) 5段が呉清源をテストした。 呉清源が先で1勝1敗. 天才橋本宇太朗(1907~94) 4段が中国に渡っていってもう一度テストした。 結果は呉清源が先で1勝1敗. 橋本は師匠瀬越憲作7段に棋譜を送った。
“少年は日本囲碁を渉猟しただけでなく創案までしています。”

棋譜を見た瀬越憲作は日本棋院副総裁であった大倉喜七朗(1882~1963)男爵を訪ねて行った。
“少年を連れてこなければなりません。”
“少年がきて日本棋士を倒すならば?”
“芸道に国境はありません。”

1928年10月27日呉清源は家族と共に日本に渡っていった。
“私が囲碁界に貢献した事が一つあるならばそれは呉清源先生を日本に連れてきたことだ。”
橋本が普段自負した言葉だ。


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棋譜1
 
当代最高勝負師降格相次いで
 
1933年10月16日呉清源は還暦をむかえた秀哉(1874~1940)名人と記念対局をした。 名人の顔に怒気が浮び上がった。 対局場外側も騒々しかった。 呉清源が破天荒の実験をしたためだ(棋譜1). 黒1を3三,黒3を星、黒5を天元に置いた。 3三は日本囲碁のタブーであった。 天元も不敬に近かった。

3ヶ月を越えて1934年1月29日に名人の2目勝利で終わった囲碁は日本社会の関心を大きく呼び起こした。 呉清源は“対局時私はふと思い浮かんで試みた”と当時を何気なく回顧した。 橋本が話した。 “あれほどおとなしい人なのに座りさえすれば盤上では到底何も言えないほど積極的だ。”

それに先立ち1929年夏、木谷実(1909~75) 5段は碁を打っていたが止めて対局場外に出てきた。 棋院関係者を捕まえて“ちょっと対策をたててほしい”と哀願した。 歴史上初めて呉清源が黒で真似碁を打った。 規定違反ではないが木谷は苦しかった。 呉清源の考えはこうだ。 “白に従っておいて適当な時真似を終われば黒が有利だ。”

この単純で絶対的な思考. 囲碁歴史の虚を突いた思いつき. ミスで勝負は負けたが真似碁はコミの成立を促進させた。 先に置く黒がコミを負担しなければ白は絶対的に不利だ。 真似碁は論理的な証拠であった。

1933年呉清源は木谷実、安永一(1901~94)とともに『新布石法』を発刊して‘新布石’を発表した。 日本囲碁300年に対する反旗であった。 囲碁は石一つ一つが互いに有機的な関係を持つこと。 結局は地が多くてこそ勝つが、地はないが影響を及ぼす手法も価値がある。 その点を重視しよう。 潜在性・均衡・速度などを明らかに着想した。 速度概念はどれくらい優れているか。

碁盤は19行で制限された世界. この世界であなたの足取りがつくだけあなたの地になると仮定しよう。 相手は歩く。 どのようにするべきか。 飛び回らなければならない。 飛び回るというのが何か。 ‘石の間隔が広い手を打つ’ ‘二手を消費する小目の代わりに一手で隅を占拠する定石を置けば一手を儲ける’. 布石と手に絶対的な基準を提示したのだ。

観念の創造は実験を耐え抜いて実力で証明されなければならない。 1940~50年代20年間は証明の時代であった。 サイズ固定の十番勝負で木谷、坂田など当代最高の勝負師を全て一段または、二段下へ降格させた。 観念の創造は文化の創造. 文化を作り出した人は文化に縛られない。 勝負は文化の方式. 勝負を行き来する。 彼の布石講義はあたかも詩を読むことと同じだ。 囲碁言語の本質は隠喩. 詩語の本質も隠喩. 盤上には部分と全体の差別がないからそれは芸術の軸だ。


 

宗教で探した真理、囲碁でどこに
 
彼は宗教に深く入った。 1935年には紅卍教に入学した。 1946年橋本と10回戦を置く前には璽于教にも2年余り陥った。 彼が路上で両手を合掌して列をなして歩くことが目撃されたりした。 後日彼は“宗教と囲碁を別々に離しては私の人生はない”と言った。 渡日直後にも机には道家の古典『呂祖全書』が置かれていた。

彼が世の中にどれくらい神秘に映ったのかに対してはエピソードが多い。 璽于教に身を置いた状態で囲碁界を離れて2年ぶりに橋本と10回戦1局を置くことになった時だ。 世間に話が飛び交った。
“呉清源が誰も予想できない神秘的な布石を持ち出すんだって。”

もちろん平凡な手法を使ったし勝負は負けた。 囲碁もそうだ。 神秘的な人物はいても神秘はないことだ。 囲碁と宗教の関連性に対しては考えられるところがある。 1930年代初め彼は盤上のバランスを取る所がすぐに着手ありといった。 1950年代に達して‘均衡’は‘調和’になった。 中和とも表現される概念. 彼は自身の人生が、中の精神に従った、和の精神を守ってきた人生といった。

均衡は順序または、左右とともに対立項がある場合、中間に位置する所を強調する。 アリストテレス論理学の延長線に置かれた理解だ。 しかし中和や調和は全体性を強調する。 極端を捨てた知恵のように世の中を分離して理解しようとする態度を抜け出す。

1930年代新布石時代以後20年が過ぎた次に彼は調和に無事に到着した。 それは囲碁からきたのか、でなければ宗教からきたのか。 彼は道の気勢を受けて育った。 若い時は囲碁と宗教が混ざったし年を取ってからは中和で意が集まった。 中和、すなわち全体性は宗教現状の核心. 故に宗教なしでは観念の創造が難しかったし、囲碁なしでは宗教が深くならなかった。 宗教を‘隠喩の世界’で把握すれば彼は大きい宗教家だった。

囲碁で技術、すなわちテクニックは重要だ。 定石や脈、急所、妙手などがそれだ。 しかしそれは部分的なこと. 全体的な力はどこからくるのか。 戦争に比喩して答えを探してきた中国. 論理で探求した日本.

呉清源は比喩と論理を越えた。
“囲碁は調和だ。”
“鏡の表面を磨かずに内面を磨け。”

内面の観照なしで囲碁の深さを得るのは難しい。 論理的にはこうだ. 内面の観照が深くなれば主客が消える。 残るものは全体性(totality). 調和と表現される所があらわれる。 彼の気性は飄飄とした。 旧韓末の国手盧史楚(実名は碩泳・1875~1945)は日本に行ってきた後息子に話した。 “君は麒麟を見たことがあるか。”

対局の時、棋士は呉清源の飄逸とした印象に先に圧倒されたりした。 品格に感心した川端康成(1899~1972・ノーベル文学賞受賞者)が文を書くことを薦めた。 それで出てきたのが20代で書いた随筆集『莫愁』. 春の日、川の丘に上がって風に当たる時の灑落感.

藤沢が優勝した第1期名人戦開始前に日本棋院は迷った。 呉清源に名人を先に献呈した後挑戦者を選抜しようという世論のためだった。 彼は格が違う棋士であった。 現代囲碁をたてた彼に世俗の名人は似合わなかった。 明日(16日)は彼の百才の誕生日だ。


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ムン・ヨンジグ

西江(ソガン)大英文学科卒業. 韓国棋院専門記事5段. 1983年プロ入段. 88年第3期プロ新王戦で優勝、第5期バッカス杯で準優勝した。 94年ソウル大で政治学博士学位を受けた。 著書では『囲碁の発見』 『主役の発見』など多数.