【盤上の香り]囲碁は形状…呉清源、複雑な定石も一度見れば‘保存’ 

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1994年第49期本因坊戦挑戦6局終局直後.敗北した趙治勲9段(右側)の緩んだ素足と挑戦者片岡聡(56・左側) 9段の端正さが対照的だ。[写真日本棋院]

 
第12期名人戦(1973年10月19日、東京日本棋院)挑戦7局. 静かだった検討室が突然活気を帯びた。 林海峰(72)名人に挑戦した石田芳夫(66) 9段が黒1(棋譜1)をちょうど置いたという伝言を受けたためだ。 呉清源(100) 9段が“黒1のような手を中国では‘大飛’と呼んだ”と歓迎して、藤沢朋斉(1993年死亡) 9段と坂田栄男(2010年死亡) 9段が“以前にこのような手を呉先生にたくさん当てられた”と異口同音に叫んだ。

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棋譜1

 
黒1(棋譜1)は難しい手であった。 左上隅黒石との距離が遠くて白に分断される余地が大きかった。 しかし真に闊達な手. 空を帳幕のように覆う大鵬の羽ばたきのようだった。 大飛と呼んだのが適切だった。

 

1990年代国内のある囲碁会からだ。 某国会議員がひと勝負置くのに姿勢が良かった。 腰を‘ピンと’伸ばしボウシと呼ぶ黒3(棋譜2)をあごの下(非常に近い所)に打った。 ボウシは相手の前を遮るのに使う手法だ。 この人はうまく行く時姿勢を毅然とした。 傲慢でなかった。

囲碁の用語は形状を描写する。 大飛が良い例だ。 対局者の手法は態度を反映する傾向がある。 ボウシが良い例だ。 態度と手法、形状と言語が共にするのに私たちが碁を打つ時は我ら自らを表現することと違わない。 私たちのからだを盤上に描くことだ。 相手にボウシをかぶせれば前に座った相手の頭を押す気がする。

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棋譜2

 
囲碁は私たちのからだを盤上に描くこと
 
囲碁には言語がある。 話さずに手だけで対話するといって手談だというが、しかし言語欲求は原初的である。

その言語はたいてい私たちの狩猟本能を生かしたのだ。 古典『玄玄棋経』(1347)は用語を32個に例示した。 ‘押す’ ‘挟みつけ’ ‘飛ぶ’ ‘頭をたたく’等がそれだ。 私たちが手足を動かして戦ったり動物をつかまえる時に見える身体イメージを盤上の形状に適用して名前を得た。

なぜそうしたのだろうか。 盤上に石が置かれれば形状があらわれる。 その形状を何と呼ばなければならないだろうか。 何か名前を付けなければ理解はもちろん統制もできない。 私たちの名前が共同体や文明を維持する基礎になるということを覚えておこう。

囲碁と人間には与えられた条件が似ていた。 人間に東西南北は基礎的な条件だ。 前後左右四方はまもなく私たちの腕と足が動くことができる限界を定めてくれる。 囲碁もそうだ。 前後左右4方向でなされた世の中が盤上. だから石が集まって形状を成し遂げれば私たちのからだの活動が表わす形状と似たイメージを創り出す。

それでこのようになった。 “あの(白2の上にある黒3)の形状は(白2の) ‘ボウシ’のように見えて。” (棋譜2)黒3を理解する方式なので話になる。 しかし次は理解されない。 “あの形状は‘黒3’のように見えて。” ‘黒3’は形状ではないためだ。 イメージをひったくることができない言語は形状を描写するのに適していない。



形状の名前をよく付ければ理解度容易で
 
囲碁の言語はそのような形で出発して発展した。 古代中国では囲碁を戦争模型で見たので言語は戦場での体の小競合いも反映した。 曖昧だったり初めて見たものには名前を付けなければならない。 それも具体的な事例で隠喩しなければならない。 事例ではすぐそばにあったりからだで探すことができることが最も良い。 わかりやすいためだ。 名前をよく付けるだけに私たちは対象を理解して扱うことができる。

人々の不平が小さくない。 囲碁というのはなぜこのように難しいのか。 容易な方法はないのか。 各分野の専門家たちはより批判的だ。 囲碁界が勉強をして言語と理論をもう少し発展させよ。 正当な評価であろうか。 そうではない。 囲碁は言語はもちろん理論もまた、よく発展させてきた。 少なくとも2014年今日の水準に合うだけは理論と言語が発展した。

 

視覚的イメージが蘇生する世界
 
囲碁とはどんな世界なのか。 序盤は曖昧だ。 石がいくつかしか置かれていないから視野に捕えられるのもない。 早朝霧に覆われている時、野原を歩いていけるか。 なじみの町の入り口も容易ではない。 杳杳(暗くはっきりしない様)である。 どうするべきか。 遠い世の中を認識するのに助ける言語が必要だ。 ‘広い’ ‘狭い’ ‘近寄る’ ‘広げる’ …そのような用語が適切だ。 ‘戦う’ ‘急所を刺す’のような用語が必要ない世の中だ。

中盤には石が集まる。 近くでからだをぶつけて戦う。 だから‘急所’ ‘押す’ ‘退ける’ ‘揺する’ …そのような用語が発達する。

終盤はどうなのか. 領土の境界を確定することは計算に属する。 計算過程では形状の力が減る。 ‘数’が支配する。 用語自体が必要ないから発達する理由がより一層ない。

理論もそうである。 中盤に戦って押しのける時には急所がとても重要だ。 私たちのからだに脈があって要所をつく必要があるように中盤には要所を探すことが緊要だ。 ‘フクラミが急所’ ‘石の中央が急所’ …そのような理論が発達する。 ‘1立2展’ ‘両翼は有利だ’という理論は序盤にだけ使われる。 序盤には情報が殆どないので命題なしで動くことは難しい。 情報が充分ならば‘もし’は必要ない質問だ。

要するに囲碁の言語と理論は囲碁の形式に合わせて適切に発達した。 適切でない言語は碁を打つのが難しくする。 序盤に‘二子の頭’ ‘石の中央が急所’ …そのような用語と理論を使ってみなさい。 囲碁がなろうか。 布石の進行が不可能だ。 中盤でも使われる用語で序盤を理解しようとしたところそうである。

自然科学でも人文科学でもほとんどすべての専門領域は専門用語(jargon)を発達させてきた。 そうでなければ歴史で生き残るのは難しかっただろう。

囲碁は視覚的イメージが蘇生する世界だ。 私たちのからだのイメージは盤上の石の形に生き生きとオーバーラップされる。 それをどのように受け入れるのか。 パターンとして受け入れる。 囲碁に才能ある人々は盤上の形状をパターン化するのにたけていた人々だ。 呉清源の場合、視覚的記憶力が優れていて、いくら複雑な定石でも一度見れば-囲碁を初めて習った幼い時期にも-忘れなかった。

このような話がある。 第2次世界大戦のうちアメリカの空襲で棋譜がたくさん燃えた。 しかし呉清源の棋譜は全部残っていた。 消えたものを頭の中の記憶で再生してやり遂げたためだ。 信じられないことだ。 しかし作られたエピソードといっても呉清源がそうしたとすれば十分に信じるに値する。



論理学者と囲碁は相性合わない
 
視覚的イメージが強い棋士はからだと盤上が一つになる水準に簡単に到達する。 からだの反応が充分でない時は対局のうちにわれ知らず頭を殴るとか、扇子をパタパタと振るとかして自覚を呼び覚ます。 相手に不便を及ぼすほどだ。

林海峰9段は藤沢秀行(2009年死亡) 9段との対局中にあまりにも扇子を振るので藤沢の抗議を受けたことがある。 “扇子が前をちらちらして目がくらむようだ。 やめろ。”
趙治勲(58) 9段が対局中に自分の頭をとても強く突いたりして相手がびっくりするほどという事実はもう誰もが知っている。
 

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上の写真を見よう。 対局が終わった後、身なりも直すことができなくて裸足で虚しく歩いていく趙治勲だ。 盤を全身で受け入れたことを察する事ができる。 対局者のうめき声や深い自嘆は非常に自然なことだ。

小林光一(62) 9段は対局中に立ち上がり、相手の後方に立って碁盤を見ることがクセだった。 自分をあまりにも盤上に深く密着させたので自身が盤を正しく見ているのかが疑わしかった。 もちろん相手の抗議を受けたりした。 小林の気持ちを棋士は理解する。 予選対局の時には多くの棋士がしばらく立ち上がって周辺を散策する。 茶を飲んで没入が作った熱気を冷やそうと思う。 視覚的イメージはからだを簡単に高揚させる。

囲碁の用語には狩猟時代の跡が多い。 狩猟時代には空間知覚能力が何より重要だった。 しかし現代には空間よりは文字中心の言語能力が重要だ。マーシャル マクルーハン(H. M. McLuhan・1911~80)の名著『グーテンベルク銀河系』(Gutenberg Galaxy:the making of typographic man・1962)で説明したように文字は人類の考え方を全体性を強調する空間的イメージから脱離するようにした。 一本調子の言語論理に傾くようにした。

今日社会はほとんどあらゆる分野の基礎がイメージよりは文字中心に磨かれている。 幸いコンピュータ シミュレーションの到来が今はかなり古くなったことだ。 専門家たちが囲碁の現水準を惜しんだ理由もここにあるだろう。 彼らが発展させてきたことは文字中心の言語能力なので、彼らは形状に基づいた囲碁言語の属性にはなじむはずがない。 合わない。 論理学者が囲碁をよく置く事は難しい。 囲碁のプロが社会の他の分野で成功するのも難しい。 少なくないプロがインタビューする時の返事が上手でない理由もここにある。


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ムン・ヨンジグ
西江(ソガン)大英文学科卒業. 韓国棋院プロ5段. 1983年入段. 88年第3期プロ新王戦で優勝、第5期バッカス杯で準優勝した。 94年ソウル大で政治学博士学位を受けた。 著書では『囲碁の発見』 『主役の発見』など多数.