タイジェム - 大韓民国1位囲碁サイトTYGEM.COM
生きている棋聖100才呉清源来月100才を迎える現代囲碁の創案者呉清源
▲現代囲碁の創案者'生きている棋聖'呉清源が今年100才をむかえた。
1914年陰暦5月19日生、陽暦では6月12日'生きている棋聖'呉清源(中国名ウ・チンウィエン)が自身の100才誕生日を迎える。近ごろ夫人が死亡するなど呉清源はなかなか外出をせず家に留まっていて、平常時は娘と弟子、そして少数のヘルパーの助けを受けている。 彼の弟子であるルイ・ナイウェイの紹介によれば来月に生誕100年をむかえるその日小規模な祝い行事を行うという。 そして日本棋院および呉清源の全盛時代親密な関係を結んだ読売新聞などの機関は7月に比較的盛大な記念行事を開催しようと予定している。呉清源は福州の名門の家柄で出生した。 父親は日本に留学をして碁を打てたのでこれが呉清源兄弟に影響を与えた。 そのうちの呉清源の天性の素質に家全体が北京に引っ越したが呉清源は当時国手であった顾水如の推薦で囲碁をとても好きだった段祺瑞の後援を受けることになった。 当時小規模な中日囲碁交流で呉清源の天性の資質は日本名家である瀬越憲作の関心を集め、以後日本棋院総裁である大倉喜七郎の後援で 瀬越門下に入った。皮肉にも囲碁の起源は中国だったが当時中国囲碁は数人の国手を排出することはあったが近代に達しては全く発展がない状況だった。 反面日本の技芸は途方もない発展を成し遂げ、すでに中国囲碁の水準をはるかに跳び越えて差が広がった状態なので呉清源は日本に行くほかはなかった。 それにもかかわらず、瀬越も大倉の地位のために名人秀渽が親しい棋士を率いて駅に行って呉清源を迎える前代未聞の接待をすることになるが、この時呉清源の年齢は14才であった。日本囲碁界が現代囲碁理念に対して多くの貢献をしたというのは否めない事実だ。 当時百花斉放が芽生える頃だったが囲碁は伝統文化との結合という点で管理体系上の理念は伝統と保守的なカラーを帯びるものだった。 潜在力を認められたが呉清源も完全に自身の実力で日本棋院内で一度'血戦'を経験しなければならなかったし、結局3段と認められた。 以後木谷実との真似対局と秀渽との特別対局を通じて呉清源の名声はますます高まって行った。
だが、昇段においてはとても融通性がなかったしまた、公式的なタイトル戦や世界大会がなかったので本当に呉清源の地位を高めたのは10回戦対決だった。
▲ 10回戦ハイライト対局. 藤沢朋斎-呉清源.1939年10月、呉清源は秀渽との引退碁で勝利をおさめた木谷実と'鎌倉(1939年7月呉清源と木谷が10回戦を始めた場所)10回戦'を行った。6局に達した時、呉清源はすでに5勝1敗に先んじて木谷を追い詰めた。これは最高級棋士にはとても屈辱的な事件だった。 このように10回戦は1941年まで引き続き置かれたし呉清源は最終6勝4敗を記録した。 以後、彼は一つ一つの10回戦で当代日本一流上手をはね除け、1939年から1956年まで'呉清源時代'を開いた。 当時彼は囲碁界で昭和の棋聖と呼ばれた。呉清源全盛時代の観点で見る時、ちょうど日本軍国主義が中国を侵略して戦争が高まる時であった。 呉清源は単独で、絶対的に優勢な囲碁戦場日本で戦う戦士であり、話す事ができない圧迫を受けたというのは言わなくても知ることが出来る。 日本囲碁界では天下無敵だった彼だったが1950年になって彼は正式に日本棋院から9段を認められた。 その上彼の10回戦対局は毎度とても多くの関心を集めたし、その中のひと勝負を負けるということは全てのものを失って奪われる事を意味する崖っぷちの戦争だった。彼はかつて1939年日本国籍を取得して'友好邦国団'に参加して軍隊慰問等で非難を受け、日本が戦争で敗れた後、彼と日本人の夫人は突然日本国籍を剥奪されたし1979年になって再び日本国籍に変えた。 呉清源は中年には国籍と極端な宗教によって彷徨に陥ることになった。 1960年瀬越憲作が訪問団を導いて中国を訪問した時、周恩来総理が呉清源に対して言及をしたし、また、2年後陳祖徳が日本を訪問した時、特別に呉清源に会いたいと要請をした等このようなことだけ見ても当時呉清源を中国政府次元で注目していたことが分かる。1961年呉清源は交通事故に遭った後、戦績が急激に落ちた。 日本プロ タイトル戦がちょうど姿を表わし始め、以後1984年正式引退をしたので呉清源は無冠の帝王といえる。 だが、彼が若かった時、果敢に新しく作った囲碁理論と世界囲碁界の位置は卓越した。
1987年日本当代超一流棋士六人の公開インタビューで趙治勲、林海峰(呉清源弟子),武宮正樹、加藤正夫などは"呉清源は囲碁歴史上最強者"という一致した意見を明らかにしたことがある。 だが、小林光一と大竹英雄の意見は違った。 彼らは"近代上手は互いに違う時代を生きているので比較するのはとても難しいことだ。 もしあえて誰が最強者だったかと尋ねるならば大体秀策,道策,呉清源の三人をあげるだろう。"と話した。▲ 1988年呉清源と台湾囲碁英才であったハ・ハンイェと復碁場面.▲ 2012年日本本因坊戦挑戦碁に姿を表わした呉清源.
老年になっても呉清源の囲碁に対する渇望は変わらなかった。囲碁オリンピックである応氏杯で審判長と名誉顧問を引き受けたし、健康が許諾する限り彼は対局場に姿を表わす情熱を見せた。
一昨年夫人が死亡した後、呉清源は娘の世話を受けて生活をしていて、中国から来たニュウ・リリなどが彼の生活を助けている。 今年2月26日第38期日本棋聖戦に呉清源は再び姿を表わして現場で観戦をしながら棋士らと検討をした。 2005年91才の時、北京まで飛んで行って第5回応氏杯決勝4局審判を引き受けるかと思えば、100才になった今年2月には38期棋聖戦挑戦碁を現場で検討する情熱を見せることもした。
呉清源は2年前夫人が90才で死亡した後、一人娘を東京自宅に残し、神奈川県小田原市の老人療養施設で過ごしている。晩年の彼は考えに大きい変化がきた。 これ以上勝負にしばられないで'六合之棋、中的精神'を唱道した。 技術的な範疇内で囲碁界他の意見を呼び起こしたが、実際彼の囲碁に対する思考はすでに人生哲学の理念が投与されていて、361の交差点上の白黒碁石に限定される事ではなかった。
遠い昔に彼は周辺の人々に"もし100才まで生きるならばことをみな終わらせられるはずだ。"と話したがあっという間に生誕100周年をむかえた今、老いて益々盛んな人は結果止まる勢いがない。注目することは永らく日本に留まっていた呉清源が中国映画とも縁が多いということだ。中日合作で撮影した<終わらなかった囲碁>は多くのあらすじの部分が呉清源の個人的な一生でもある。2006年、テン・ジュアンジュアン監督製作で上映した映画<呉清源>は中国の有名な俳優チョン・チンが若い時期の呉清源の役を受け持って話題を集めることもした。呉清源の名声をより高めた10回戦が再び私たちの目の前で繰り広げられている。 優勝賞金500万中国元(約8億2000万ウォン)の'Mlily梦百合杯イ・セドル-古力10回戦'だ。すでに4局まで進行されてイ・セドルと古力が2勝2敗で同点を成し遂げている。 誰が呉清源の伝説を繋いで歴史に残る主人公になるだろうか?▲ 2006年開封された映画<呉清源>のポスター.
▲ 呉清源の娘(中央)が呉清源先生の誕生100周年をむかえて'慶和賞'を受賞している