中で生きるのが難しかった... 

趙治勲9段に対する断想
 
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‘伝説の帰還’. 韓国現代囲碁70年をむかえて趙治勲名人を招請して曺薫鉉国手と記念対局を披露して局後現場インタビューまで全過程を囲碁TVで放映したことは途方もない成功を収めた。 感動的だった。 TVを直接見るができなかった人々もインターネット動画を通じてこの歴史的なイベントに接することができたのでどれほど良い事だったか。

この二人の囲碁英雄の1980年末に行った二回の記念対局と比較すると雰囲気が明確に異なった。 趙治勲の言葉通り35年という年輪が積もったからか。 人格がより一層成熟されたと見る。 “(年を取って)囲碁が弱くなると人がさらに立派になりました。 次には立派な趙治勲. (このように書いてください)”と話して笑いの海を作った。

韓国でずっと生きてその年齢に達した人が自ら立派だと表現すれば生意気だと考えることもできる。 だが、韓国語がどもりがちでより良いニュアンスの言葉を探すことができないからであるものと見たからなのか全く拒否感なしで爆笑を醸し出させる効果があった。

‘クシ’という単語をすばやく思い出すことができなくて頭をとかすふりを先にしながらその単語を捜し出すのも笑いを誘い、タイトル戦の賞金が非常に大きい日本で最も多くタイトルを取って金持ちになった彼が、髪をとかすための金がなくて頭がこんがらかったというウィットある返事をするのも腹を抱えるようにした。

筆者はまた、7月30日付中央日報にチョン・アラム記者が書いた文を読んで胸がじいんとした。 40年の間一緒に生きてきた妻が近頃癌闘病中なので家で看病するのだが精神的苦労をたくさんしている、"人生はとても短い。 そのまま通り過ぎるようだ。 死ぬ前に必ず一度韓国で暮らしてみたい。"という人間的な、私たちがそこまで接することができなかった勝負師のまた他の断面を見た時胸が痛かった。 

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▲髪をとかさなかった趙治勲のヘアースタイルはアインシュタインを想起させる。

 

少年趙治勲とチョ・ナムチョル先生、そして囲碁に関する私の記憶
 
私が新聞で囲碁のニュースを読んで最も生き生きと、初めに記憶した記事が囲碁神童趙治勲が日本に囲碁を習いに行くという記事だった。

子供の趙治勲が上辺に碁石を置こうとする時、座ったままでは手が届かないのでよろよろ起きて石を置くという話を読んだ時、こんなに小さい子供が囲碁をよく置くということが本当に目あたらしく思った。

当時高等学校3学年だった私は碁を打たなかったが、囲碁が不慣れだったことではなかった。 おじいさんと二人の叔父が囲碁好きで、幼かったとき我が家の広間にも碁盤はあった。 農作業が忙しくない時おじいさんが飲みながら碁を打っている時に、食事の時になったと伝えるお手伝い役は満三才頃から私の役割だった。

このように囲碁が不慣れではないのだが私が高等学校を卒業する頃まで囲碁を習わなかった(できなかった?) ことは早い年齢で囲碁を習えば勉強に支障があると考えられたおじいさんのためだった。

後で囲碁に興味を持つとすぐに囲碁の大物というチョ・ナムチョル先生がどんな方なのか気になって私は明洞(ミョンドン)にある松院棋院を訪ねて行った。 その時期には韓国棋院会館が別にないので松院棋院事務室が韓国棋院事務室役割をし、入段大会も松院棋院で開かれた。 

2階に畳が敷かれている大きい部屋に暖炉が置かれていたが、天気は寒くなかったし暖炉に火がつけられていなかったのでおそらく1963年4月頃のことだと考えられる。

およそ50代と見える二人が碁を打っていて、そのそばで2~3人が観戦していた。 碁盤の前には百ウォンの紙幣が数枚ずつあった。 しばらく過ぎるとすぐに窓のそばに座って観戦した人が“チョ・ナムチョル師範が来られる”と話すとすぐに碁を打っていた人々が置かれていた紙幣をすばやくつかんで財布に入れた。 

チョ・ナムチョル先生が“こんにちは元気ですか?”といいながら部屋に入るとすぐに“はい、師範、こんにちは。”と挨拶の言葉が行き来した。 簡単な対話をした後にチョ・ナムチョル先生は事務室に入られたし、碁を打った人々は対局を継続した。

チョ・ナムチョル先生が囲碁が単につかみや賭博ではないということを認識させるために努力してきたとのことをその時の現場で感じることができた。 そのためか私は今まで金をかけて碁を打ったことがない。



韓国囲碁の自負心を立てた1980年の趙治勲 
 
趙治勲が1980年に大竹名人に挑戦して4勝1敗1分けで全面的に名人タイトルを勝ち取ったことはものすごい事件だった。 “名人にならずには韓国に帰ってこない”と覚悟する程、名人は趙治勲の一世一代の目標だったがその目標を達成した。 

趙治勲が名人になったことは彼自身の成就だけでなく韓国囲碁人の誇りを高める事件だった。 韓国囲碁が日本より一段階下だと考えたその時に韓国人が日本囲碁の第一人者になったというのは非常に誇らしいことだった。

韓国囲碁の名付け親であるチョ・ナムチョル先生が日本の藤沢や坂田に定先で碁を打って、パク・チムンの表現を借りるならチョ・ナムチョル先生は日本の上手より一段階下である自身が9段になるのは‘不敬’と感じるほどだったといったので。 これは韓国囲碁人の自尊心を傷付けることであったのだが、韓国人である趙治勲が日本囲碁の頂上にそびえ立つことになったのでどれくらい誇らしいことと繋いだだろうか。 

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▲ 1980年趙治勲8段(当時)は名人大竹に挑戦して4勝1敗1分けで全面的に夢に描いた名人タイトルを取った。 単純に名人タイトル一つを占めたのでなく日本囲碁界を征服したことで、祖国の国民に韓国人としての自負心を高める快挙であった。 韓国囲碁史にとってこのように印象深かった日があっただろうか。

当時私はサンディエゴでUniversity of California at San Diegoに在職して余暇活動でアセン棋友会という囲碁クラブを組織して運営したが、クラブ会員たちが集まる時や他の所で碁を打つ人々が集まる時には趙治勲の名人戦挑戦碁が話題の中心だった。

趙治勲が日本で名人挑戦者になった時から挑戦碁が進行されていよいよ名人になった過程は日刊新聞に大々的に報道された。 名人を取得して帰国してウングァン文化勲章を受けたことも同じだった。

韓国に囲碁ブームを大きく起こした最初の事件だった。 二回目が1989年に曺薫鉉が応氏杯決勝でニェ・ウェイピン9段を3勝2敗で打ち破って‘囲碁皇帝’として登板した事件だった。 三回目は1992年1月に満16才の囲碁神童イ・チャンホが林海峰9段を3勝2敗で勝って東洋証券杯タイトルを取得したことだった。

1980~85年の趙治勲
 
趙治勲が1980年に名人タイトルを取った後に各棋戦で活躍した内訳を表1に表した。 彼は翌年に名人タイトルを防衛し、武宮に挑戦して本因坊タイトルを取って名人と本因坊タイトルを同時に保有した4回目の棋士になった。 次の1982年にはこの二つのタイトルを守っただけでなく十段と鶴聖のタイトルを追加して4冠王に上がった。 

1983年は頂点だった。 ランキング1位の棋聖タイトルを1回から6回まで保有した藤沢秀行に挑戦して3対局を続けて負けて残りの4対局を続けざまに勝って棋聖、名人、本因坊の3大タイトルを同時に保有する‘大三冠’の業績を成し遂げた初めての棋士になった。

その上3連敗後4連勝という珍しい記録を残すこともした。 しかし本因坊に挑戦した林海峰に挑戦碁最後の対局を7月27日に敗北することによって大三冠の称号は4ヶ月余りで終わった。 1984年には再び棋聖に挑戦してきた林海峰をはね除け、名人に3年粘り強く挑戦してきた大竹をはね除けて防衛した。

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趙治勲の主なタイトル保有状況(1980-85年)

 

“中で生きるのが難しかった”
 
趙治勲は1985年に9期棋聖戦で武宮正樹の挑戦を受けた。 日本棋院と読売新聞は棋聖戦挑戦1局を趙治勲の故国で持つことで合意して1月16日に小公洞(ソゴンドン)のロッテホテルで対局を始めた。 この時に立会人で坂田栄男、解説者で小林光一が一緒にきて名前だけで威容を備えた囲碁行事であった。 そしてルポ作家の沢木耕太郎が同行した。 

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▲棋聖戦挑戦1局(1985年1月17,18日)第1譜
黒:趙治勲棋聖VS 白:武宮正樹9段

56手までの囲碁は二人の棋風のとおり展開した。 黒を握った趙治勲は左上隅から左下隅に達する19で大きい実利を得て、右上隅と右下隅に確実な根拠を用意した。 代わりに‘宇宙流’の武宮は中央に大勢力を確保した。 

黒57でハネた時に白58で防いだし、黒が59で二段バネをすると白が60で切ってしまった。 雄大な白の勢力の中でこのように孤立した黒石がどのように生きるかがこの囲碁の焦点となった。

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▲趙治勲vs武宮第2譜(65-78)

黒65以下黒77まで進行された時に白78が非常に鋭い。

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▲第3譜124手(三角印)時の状況

79以下艱難辛苦終わりに黒大石は白二子をとらえて生きていった。 さすが打開の趙治勲だった。 だが、白は黒を攻撃することによって中央と右辺に巨大な勢力を形成して囲碁の形勢は相変らずきっ抗した。

対局後インタビューで趙治勲は“中で生きるのが難しかった”と話したが、孤立した黒大石が白の勢力圏中で生きる事が難しかったという意だった。 しかしルポ作家の沢木耕太郎は趙治勲のこの話を“6才で見慣れない異国にきて日本の中で適応して生きるのが難しかった”という意を含蓄すると解釈した。

また、日本で長く生きてきた彼が祖国である韓国も思わず見慣れない土地になって韓国“の中で(適応して)生きる事が難しい”ことだと解釈、趙治勲が処した状況を絶妙に説明した。 以後“中で生きる事が難しい”という言葉が有名になった。 これは彼が“馬車は走る”という随筆で書いたが、サイバーオロのソン・ジョンス常務がこの随筆を紹介して韓国に広く知られることになった。


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▲ 1985年2月、ソウルで開かれた趙治勲棋聖と挑戦者武宮の棋聖戦挑戦1局開始の姿. 趙治勲棋聖が故国で行った防衛戦だったが日本棋戦史上初の海外で開いた挑戦碁にも大きい関心を集めた。



趙治勲が18才の時である1975年初めに当時55才の巨匠である坂田に日本棋院選手権戦決勝で二対局に勝って3度を続けざまに負けてタイトル獲得に失敗したことがある。 この時にルポ作家沢木耕太郎は趙治勲をインタビューしに会ったが、趙治勲が胸の内を閉じて何か詰まっている感じを受けたが、“私が名人になった後にあなたのインタビューに真剣に応じる”と話したという。

彼は“誰でも名人になるか?”と思い、ただ自身のインタビューに真剣に応じなかった弁解と感じた。 沢木耕太郎は囲碁をよく分からないが韓国からきた勝負師趙治勲に対して関心を持ったがこの時インタビューを拒絶された後にたたんでいた。 ところが趙治勲が名人になるとすぐに忘れずに連絡してインタビューに応じるつもりがあると話して二人は近い仲になり、1985年棋聖戦挑戦1局に同行したのだ。 

沢木耕太郎は趙治勲が韓国でさらに熱烈な支持を受ける囲碁英雄であってこそ当然だが、そうではないのをいぶかしいと考えて1980年末と翌年初めにかけた趙治勲の1次祖国訪問時のことを上記してその疑問を解釈した。

その時曺薫鉉と趙治勲の記念対局初戦で趙治勲が勝利するとすぐに韓国棋院のある関係者がチョ・サンヨンの所にきて(次の対局は石を握ってどちらが黒番になるのかを定めるが)曺薫鉉が黒番になるようにしてほしいとお願いしたという。 二回目対局は早碁だったので曺薫鉉が黒を握ればさらに有利だという考えを持ってこういう提案をしたことだった。

もちろんこのような事情を曺薫鉉は知らずにいたが、対局前のこの話は趙治勲に伝えられ、趙治勲は“私が負けることをそんなに望むか”とするとすぐに心に大きい傷を受けた。 “それなら一度対局してみよう”と必ず勝つという覚悟を固めることになったというエピソードを沢木耕太郎が伝えた。

沢木耕太郎は韓国人が棋士を応援する熱気が日本との距離に比例するという事実を注目した。 趙治勲が日本の棋士と対局すれば趙治勲をより熱烈に応援するが、趙治勲が曺薫鉉と対局することになれば韓国で活動する曺薫鉉をさらに熱烈に応援して、ソ・ポンスと曺薫鉉が対局することになれば純韓国囲碁であるソ・ポンスを日本で囲碁を習ってきた曺薫鉉よりさらに熱烈に応援するということだった。

それで趙治勲が日本で富と名誉と妻と家族など全てのものを得たが、異邦の地日本“の中で生きる事が難しかったし”反面六才の時に他意によって離れた祖国では日本で長く生きてきた彼を韓国語をよくできないとか日本女と結婚したとかという非合理的批判をする人々がいるので韓国“の中でも生きる事が難しい”という意も持ったものとして趙治勲の話を解釈した。

趙治勲が日本でもそして韓国でもマーシャル マクルーハン(Marshall Mcluhan)が話した“marginal man”(周辺人)になった境遇をよく説明する言葉になった。 

少年趙治勲の日本での人生がどれくらい難しかったら、自殺するつもりで旅立って“死ぬのでなく死ぬ覚悟で碁を打てば道が開かれないだろうか”と考えることになり、それで“命をかけて碁を打つ”という趙治勲の対局姿勢が誕生したのだ。 命をかけて碁を打つ趙治勲に相手の巨大な勢力の中で自身の大石の生死をかけて碁を打つことになった事が決して偶然ではないだろう。 

彼は相手方の大勢力中に入ってそれを破って生きることを数えきれない程したので相手方勢力を破る‘爆破専門家’というニックネームを得た。 すなわち、日本の中で生きる事が難しかった彼の人生の経験は“中で生きにくい”相手の勢力中に飛び込む碁を打てるようにしたと見られるので沢木耕太郎が“中で生きる事が難しかった”という趙治勲の話を含蓄的に解釈したのが決して恣意的なことだと見ることはできない。 

 

趙治勲を育てた兄チョ・サンヨンに対して 
 
趙治勲の今日があるようにしたところは彼の兄チョ・サンヨン7段の存在が多大だ。 チョ・サンヨン(1941年11月24日生)は当時の基準では早い年齢である1956年に14才で入段した。 似た年齢のカン・チョルミン(39年生まれ)とキム・イン(43年生まれ)が58年に入段し、ユン・キヒョン(42年生まれ)が59年に入段した。 後に続いてイ・チャンセ(40年生まれ)が60年に、チョン・チャンヒョン(38年生まれ)が61年に入段したのと比較するとチョ・サンヨンとキム・インが一番幼い年齢で入段した。 

当時1920年代以前に出生したミン・ヨンヒョン、キム・ポンソン、キム・ミョンファン師範がチョ・ナムチョル先生の競争者にならなかったので幼い年齢で入段した新芽に期待しなければならなかったが、1961年で19才であるチョ・サンヨンが一番最初に第2回最高位戦で挑戦者になって叔父と向き合った。 結果は叔父チョ・ナムチョル先生の3連勝で終わったが、おいを見合わせるチョ・ナムチョル先生は不都合だっただろう。

チョ・サンヨンと趙治勲の父親であるチョ・ナムソク(1920~1991)先生は息子が一方的に敗退した事が不満そうだったのか、その年にチョ・サンヨンを日本に送った。

チョ・サンヨンは木谷門下に入って、2年後である1963年に日本棋院2段を受けた。 兄の勧誘で1962年に趙治勲が日本に行くことになったことはすでに良く知られた事実だ。 

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▲成田空港で子供の趙治勲と兄チョ・サンヨン(右側)と日本留学中だった青年キム・イン. 見慣れない異国でチョ・サンヨンは趙治勲にとって両親のような兄であり、後押しをする影のようなマネジャーであった。 趙治勲を育てたのは8割が兄だったと言っても過言ではない。

弟の治勲が日本に行った後に兄であるチョ・サンヨンは本人の囲碁勉強より棋才が優れた弟の面倒見を優先順位とした。 両親と離れた幼い趙治勲に期待して献身的な面倒見をしてきた兄がいたので今日の趙治勲があることができた。

日本で活動する間にもチョ・サンヨンは韓国棋院の棋士職を維持していた。 しかし不幸にも1986年に彼は韓国棋院の棋士職から除名された。 理由は趙治勲が名人になった後、韓国での人気を利用して[月刊囲碁世界]を出版して(韓国棋院で発行する[月刊囲碁]と競争して)韓国棋院に経済的損失を負わせたとのことだった。 

チョ・サンヨンは2007年ごろに自身の棋士職を復職させることを韓国棋院に嘆願した。 彼の棋士職を復職することを望む人々がたくさんいて、現韓国棋院副総裁であるパク・チムンもそのような意見を表明した。 
 
“チョ・サンヨンの望みどおり韓国棋院が彼を復権させて名誉を回復することが当然な道理という考えだ。 24年はどんな誤りも溶かすほどの長い歳月だ。 しかもチョ・サンヨンの除名理由は今日の目で見れば何でもない。 そこに付け加えて私が本当に望むのは兄の復権によって趙治勲9段の胸奥深いところに席を占めたうらさびしい凝りを解いたらと思うことだ。 (中央日報2010年4月2日)”



韓国現代囲碁70年、包容して和解する年になったら
 
今、韓国囲碁70周年を迎えてこの問題を解決する必要があると見る。 銃口でねらって戦ったアメリカとベトナムが遠い昔に国交を結んだし、“韓国軍が世界で最も残忍な傭兵”と非難した韓国にも国交を結んで久しい。 イ・カンウク師範が囲碁普及をしにベトナムに行った時、彼を快く受け入れた。 
 
もう30年になっていく過去のことを忘れて和解する時になった。 そしてチョ・サンヨンが囲碁月刊誌を出版して韓国棋院に及ぼしたという経済的損失は、彼が、趙治勲を囲碁高手に成長することができるように助けて結果的に韓国囲碁発展に及ぼした功績に比較すれば百分のこともならない微小なのだ。 

反面“命をかけて碁を打つ”というすさまじい心情で難しい時期を克服していく時に韓国棋院が彼のためにしたことはあまりない。 にも関わらず趙治勲が韓国の囲碁発展に貢献したことはなんとも言えないほど大きい。

[月刊囲碁] 2015年8月号の“命をかけて碁を打つ! 趙治勲、大三冠達成”という文でイ・クァングは“韓国囲碁中興と跳躍の一番の貢献者は誰であろうか。 そういう事を問い詰めるのは過度に図式的で偏狭なことだ。 功臣が一人や二人であろうか。 それでもあえて問い詰めようとするなら趙治勲だ。 悲劇的英雄のシルエット、その主人公が趙治勲だ。”という言葉で結んだ。

今回の‘伝説の帰還’という行事にも趙治勲は快く参加して韓国の囲碁ファンたちに自身の考えを率直に話す機会にしたのも高く評価するに値する。

ただ一つ残った趙治勲の肉親である兄を名誉回復させて“死ぬ前に韓国で一度生きたい”という趙治勲名人の切ない願いを成し遂げるように“韓国の中で生きる事が難しい”でなく“中で生きる事が気楽に”することが韓国棋院の道理だと見る。チョ・サンヨンの棋士職を回復させるだけでなく日本棋院で退職する時に受けた7段を認める事も当然な道理だと見る。

去る2010年にチョ・サンヨンの復職問題を棋士会で投票した時に若い棋士がたくさん棄権したと分かった。 事実ならば若い棋士に訴えたい。 チョ・サンヨンの除名事件以後に生まれたり、その時に世間知らずであった80年以後に出生した棋士が歴史意識を持って先に立つことを頼む。

もう韓国棋院は80年以後に出生した棋士が、18才を越えた人員だけ問い詰めても棋士会の絶対多数となる。 この若い棋士が“私にはよく分からない過去のこと”だと消極的な態度を取らずに歴史意識と覇気を持ってこの問題を先に立って解決することを頼みたい。

若い棋士が声高い古参棋士に臆して自分の声を出すことができないならばどのようにして韓国囲碁界が改革されて発展することができようか?

[ペ・テイル] 
原文記事:中で生きるのが難しかった...

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