[舌戦說戰]趙治勲'v74'を期待して 

曺-趙対決が2週遅れた理由
 
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▲趙治勲は昨年7月12日東京日本棋院で開かれた第4期囲碁マスターズカップ(協賛・フマキラー社)決勝(単盤)で黒を持って小林覚9段を310手で6目半で負けさせ優勝、自身の通算タイトル73回を記録した。 [PHOTO=日本棋院提供]

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[キム・グラの舌戦説戦-第9回] 
'盤上のグラ'キム・ソンリョン9段.強大な口が立つことを自慢して得たニックネームだが派手なアドリブでも、取るに足らない雑談でも付け加える水準ではない。瓜二つである解説とは距離が遠い、率直溌剌直線的な語法でファンたちを楽しませる。毎週サイバーオロが蓆を敷く。週間観戦評'キム・グラの舌戦説戦'. 
 
 

趙治勲9段が再びタイトル狩猟に出た。 メジャー棋戦でなくシニア棋戦であることが惜しいが私たちのシニア大会とは'格'が違う。 

去る6月27日、満50才以上の中でタイトル戦優勝がある棋士だけ参加できる日本マスターズ杯. 日本はタイトル戦優勝者が多くて別途の予選を行わなければならない。 9段だけ参加する我が国のマキシムコーヒー杯のような感じが出る大会だ。 名前の値段はともかく賞金(500万円、韓国のお金で約4500万ウォン)もやはり少なくなくて公式大会と認められるのに遜色がない。

趙治勲9段はこの大会1,4回で二度優勝したが、昨年小林覚9段に勝利して通算73回優勝を達成した。 今年は二人の棋士が4強で会って再び趙治勲9段が勝って決勝に上がった。 

近況を伝えるニュースならばこの程度で終えることもできるが実際に掘り下げるとおもしろい事が多い。 これまで徹底した無関心(?)で一貫した日本囲碁の中にせっかくだし一度ドブンと落ちて入ってみよう。
 

曺-趙対決が2週遅れた理由
 
5月18日夜. チョ・フンヒョン-趙治勲のいわゆる‘曺-趙対決’成功報道を韓国棋院で発表したがさほど経過せず特別な事情説明なしで日付を変更した。 初めには7月12日といったが秘かに7月26日に変わったのだ。 すべての報道機関が対局日誤報を出したもよう。 MERSによる延期ではなかった。 事件の転末はこうだ。 趙治勲9段の対局日程を日本棋院が変更できないと通告してきて広がった寸劇だった。 

なぜそうなったのだろうか? 分かってみるとすぐにマスターズ杯決勝が7月11日に固定されていて、趙治勲9段がこの棋戦で常勝疾走していたこと。 交渉数ヶ月前にはそこまで決勝戦日を計算に入れない事が問題になったのだ。 日本棋院の立場では非公式大会である曺-趙対決のために決勝戦日程を見るわけがない。 結局2週間後である7月26日に対局日が変わることになったわけだ。

羽根直樹の父‘羽根泰正’
 
16強戦と8強戦の対局相手がおもしろい。 前年度(4回)優勝者である趙治勲9段は最初の試合を‘名古屋の星’だった羽根泰正(1944~) 9段と置いた。 彼は去る5月22日、70を越えた年齢でプロ通算1200勝を達成した。 日本歴代6位に該当する記録だ。 まだ現役で生き生きしている実力を見せている元老棋士だ。 (通算1位は趙治勲だ。 1455勝) 

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▲アメリカ囲碁大会に参加した羽根泰正9段家族と囲碁ファンたち. 写真の前列左側で二番目が羽根直樹の父羽根泰正9段だ。


幼い時の記憶. 中日スーパー対抗戦という大会があった。 日本囲碁が一番だった時期、ある瞬間中国との交流戦で侮れなくなるとそれならどこか本格的に一度対決してみようとして両国がベスト選手7人ずつ出て対決した対抗戦だ。

この時、最高のスターとして背伸びした人が他でもないニェ・ウェイピン9段だ。 1~3回大会で最後の主将として出てきて9連勝をおさめて中国の優勝を決定して大陸の英雄になった。 台湾の応昌期先生もこの結果に鼓舞されてニェ・ウェイピンが優勝することだと信じて応氏杯世界大会を開くほどであった。

1989年第4回大会で当時‘日本の新星’依田が始めるやいなや6連勝を上げて‘鉄の守門将’ニェ・ウェイピンを早目に呼び出した。 だがニェ・ウェイピンは依田の勢いを寝かして引き続き淡路修三まで返して11連勝の記録を続けた。

3年ずっとニェ・ウェイピンの悪夢に苦しめられた日本としては再び焦り始めた。 この時ニェ・ウェイピンの連勝記録に終止符を打って日本に初優勝を抱かせた人がまさに羽根泰正だ。 以後ニェ・ウェイピンは急激に下り坂を歩き始めた。 応氏杯優勝を通じてより一層強くなったチョ・フンヒョン9段と対比される。 

羽根9段は91年王座戦で優勝してマスターズ参加資格を備えた。 ところが1年後に王座タイトルを奪われたが、その相手が他でもない66才の藤沢秀行9段だった。 日本最高齢タイトル獲得記録の対決で記録された。

偶然にも以前まで最高齢タイトル保有記録担当者は羽根の師匠である島村俊広9段(77年天元戦を65才に獲得)であった。 師匠の記録まで飛ばした格好になった。 藤沢秀行9段は翌年王座を防御して最高齢タイトル獲得記録を67才に増やし,この記録はまだ破られないでいる。

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▲ 1980年には名人戦で趙治勲9段が大竹英雄9段に挑戦した。

 

運命の1980年、そして彦坂直人
 
チョ・フンヒョンと趙治勲を語る時は1962,1980,1989を必ず記憶しなければならない。 二人の棋士の運命が妙に重なるためだ。 1962年に趙治勲は満6才. その年に日本留学に出て、以後最高の棋士に成長する。 1962年その年チョ・フンヒョンは満9才プロ入段という世界記録をたててプロ棋士になった。

1989年、チョ・フンヒョンは応氏杯優勝と共に囲碁皇帝の称号を受けた。 趙治勲もやはり本因坊戦タイトルに復帰(以後10連覇)としながら第2の全盛期を開いた。 二人の棋士には新しい跳躍としてかみ合わさる年だ。 

それなら1980年にはどんなことがあったのだろうか。 この年チョ・フンヒョンは名人戦でソ・ポンスを折って1次全冠王(9冠王)を達成した。 日本が囲碁のメジャーリーグとして待遇を受けていた時期であっても全冠王記録はいたずらでない記録だ。

ところがすべてのファンたちの関心を一挙にまわす本物のビッグマッチが日本で開かれて全冠王の偉業はあっという間に光を失った。

趙治勲8段(当時)が‘名人’に挑戦したのだ。 以下の囲碁は当時大竹英雄名人に2:1で先んじた状況で置いた4局だ。 図を先に見よう。

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▲第5期名人戦挑戦4局、1980.10.8~9. 
白:名人大竹英雄 
黒:8段趙治勲

白1コウ材、黒は2で受けて白が3でコウを取り出した。 この時までしても趙治勲が有利だった。 問題はここで発生する。

最後の1分秒読みで記録担当者が“40秒”というとすぐに趙治勲が記録担当者に“私がコウを取り出す番か?”と尋ねる。 この時まで記録担当者にコウを取り出す番なのかコウ材を使う番なのか尋ねる行為が日本では反則ではなかった。 記録担当者は“ハイ”と答え、安心した趙治勲は黒4でコウ材を使わないでコウを取り出した。

“アレ’…これは困ったな。”名人の一言に囲碁は中止された。 

趙治勲はルールを破らず、名人もすでに止まってしまったその場面で対局を継続することは難しい状況になった。 制限時間各自9時間ずつ二日間広がった血戦が夜10時40分、213手を最後に結局引分けの判決が出た。 7番勝負最初の引分け対局だ。 

事実コウ材を最初に使ったとするとAの所にコウ材が多い趙治勲が有利だった。 幸い以後5,6局を勝利して初めての名人タイトルを持って故郷に錦を飾った。

5.18民主化運動で国民の心がひどく痛かった時期. 趙治勲は大竹に勝ったことでなく日本を征服した英雄として歓迎された。



羽根9段に初戦に勝った趙治勲9段は8強戦で彦坂直人(1962~) 9段と向き合った。 この大会参加者のうち最も幼い棋士(?)で99年十段タイトルを取得したことがあって満50才になって大会出場資格を得た。 

ところが引分けを出した名人戦挑戦4局の時‘ハイ’と答えた記録担当者が当時満18才、プロ4段だった彦坂直人だったという点がおもしろい。 そのような大きい事故にも屈せずタイトルまで取り出したので彦坂9段もやはり侮れない棋士であることに間違いない。

趙治勲9段の決勝相手は‘宇宙流’武宮正樹9段. 棋聖、名人、本因坊戦で趙9段に主にタイトルを献納した記録が多い。 来る7月11日にも趙治勲9段のv74の一助となることを希望する。 ^^ 



前回の妙手コメントでチョ・フンヒョン9段の妙手を選択した方々に[見せ掛けの形退治法] 1,2冊を差し上げます。抽選は公正にするため息子のキム・ジュンウがしました(動画参照).


 
原文記事:[舌戦說戰]趙治勲'v74'を期待して