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 [白黒広場] ‘突然変異‘キム・ジソクを見守る理由

キム・ジソクの顔と向き合うときはあたかも透明鏡を見るようだ。

欠陥一つなく綺麗だ。 過去の囲碁説話に登場する童子がこんな姿であったか。 現代職業の中で選ぶならば典型的な‘天才’タイプだ。

角ばったあごにモジャモジャのひげ跡、疲労感でやつれた陰影の中に光らせる目つきで何か探るような勝負師の顔とは全く違う。 キム・ジソクの目つきも鋭いけれど勝利やベッティングに埋没した俗世型鋭さとは距離が遠い。 知的好奇心でぎっしり埋まったきらきらする目つきだ。

実際にキム・ジソクの家は学問と関係がなくはない。 知識人家系だ。 父親が著名な理工系教授(全南(チョンナム)大新素材工学部)であり、母親も薬大を出たインテリで知られている。 3才年上の夫人もやはりソウル大薬学大学院修士出身の才女だ。

このような家の雰囲気の中で育って生きてきた彼から学者の雰囲気が漂うのは変でない。 キム・ジソクは物理実験室や薬理検査室でなく盤上で烏鷺の真理を探求する科学徒だ。 自身も“私は勝負師ではなくて研究職に近いという気がする”と話す。
 

‘囲碁科学者’キム・ジソクが今年下半期囲碁界に荒々しい旋風を起こしている。 三星火災杯(12月9~11日)に続きLG杯(2015年2月9~12日)でも決勝に進出した。 8-4強戦に上がっている春蘭杯(12月25~27日)を含めば最多世界3冠王を見通せる圏内に入った状況だ。

世界3冠王とは!
最近は世界タイトル7個を7人が分割占領したままうなる春秋戦国時代だ。 過去イ・チャンホやイ・セドル、古力のような天才の全盛期の時もあった‘タコ足’話が再び登場したことが驚くべきであるだけだ。


より一層驚くことはこれがキム・ジソク自身の立場でも過去には見られなかった‘びっくりショー’水準というものだ。 今年の夏までしてもキム・ジソクの履歴書で‘最高経歴’は世界4強だった。 LG杯と三星火災杯で各一回ずつ合計2回記録しただけ、一度も世界大会決勝は踏んでみることができなかった。

一部ファンたちがそのようなキム・ジソクを示して‘国内用’とあざ笑ったのも無理はなかった。 イ・チャンホ、イ・セドル、パク・ジョンファン、チェ・チョルハン、パク・ヨンフン、ウォン・ソンジン、カン・ドンユン、パク・ジョンサン、ペク・ホンソクなど‘世界征服派‘とは違ったDNAを保有したようだった。

 

囲碁と年齢の相関関係は新たに強調することは恥ずかしい程密接だ。 最大限幼い時入段して10代中-後半に国内を征服して、10代後半で20代始めの間に初めての世界タイトルを取り出すことが最高エリート棋士のコースになっている。 そうした後、国内外持分確保のために東奔西走して20代半ば~後半からは下り坂に入ることが決まった動きであった。 いくら優れた天才としても三十を越えてまで力を持った棋士は殆どなかった。

確認するために一流の初めての世界登頂年齢を掘出してみた。 イ・チャンホ(16才)、チョ・フンヒョン(43才)、ユ・チャンヒョク(27才)等は時代背景などを勘案すれば例外的というほどの存在で、彼らの後に続いたイ・セドル(19才)、パク・ヨンフン(19才)、チェ・チョルハン(20才)、カン・ドンユン(20才)、パク・ジョンサン(22才)、パク・ジョンファン(18才)等は上の年齢公式(?)に概して符合した。 ウォン・ソンジン、ペク・ホンソクの時に26才世界チャンプが排出されたのが多少特別な意味を持つ。

外国棋士中にはマア・シャオチュンが31才、ウィ・ピン33才、古力とコン・ジェはそれぞれ23才、27才の時、世界制覇名簿に名前を上げた。 バク・ムンヨがLG杯を握ったのは23才の時であった。 現役世界タイトル保有者であるジョウ・ルイヤン(22才)、トゥ・ジャシ(23才)、チェン・ヤオイェ(24才)、タン・ウェイシン(20才)などは平均値にまたがるが、パン・ティンウィとミ・ウィティンの存在は新たにすごく感じられる。 17才頂上登板はイ・チャンホ以後初めてであるためだ。 日本は趙治勲が35才、武宮48才、張翔は25才の時世界頂上に上がった。

 

キム・ジソクは89年生まれだ。 現在25才6ヶ月、韓国式では26才だ。 来年6月なら満26才となる。 一般的に見れば‘最高点’の有効期間が過ぎている年齢だ。 ところが彼の成績表は驚異的にも絶頂に向かって駆け上がっている。 競争者が下山(?)し始めたり準備する年齢であるのに彼はさっそうと高いところでずっと行進中だ。 今までの囲碁界成長時刻表に代入すれば全盛期を越えた(?) キム・ジソクは世界征服が不可能だ。 彼に‘突然変異’という紙を付けようとする理由だ。


国内最上権棋士との相対性的推移を調べてもキム・ジソクの変身は不思議な側面がある。 まずイ・セドルとの関係から見よう。 全盛期時代のイ・セドルがかつて“私の後継者はキム・ジソク”と話したというエピソードは良く知られている。

ところがイ・セドルがそのように言う当時、キム・ジソクのイ・セドルに対する相手戦績は本当に思わしくなかった。 2012年10月までキム・ジソクはイ・セドルに一方的に押された(3勝12敗). イ・セドルは同じ道場出身後輩キム・ジソクを、とりわけかわいがったが、彼の‘後継者’発言はこのような‘後輩愛’の次元で出てきたこととしか見なされなかった。

ところが信じられないのはその後二つの相手戦績変化だ。 キム・ジソクは2012年11月以後最近まで約2年間イ・セドルと6対局を置いて何と5勝を取り出している。 この中にはキム・ジソクが3対0で完勝した第18回GSカルテックス杯決勝戦(2013年4月)も含まれる。 天下のイ・セドルが番碁勝負でストレートで完敗したのはこれが初めてだ。 この対戦は以後作られたキム・ジソクの上向き曲線、イ・セドルの下方カーブのそれぞれの出発点になった。

イ・セドルはキム・ジソクに比べて6才も多くの年齢とかそのようなこともあると? それでは今度はキム・ジソクより4才年上であるチェ・チョルハンとの相対性的変化を追跡してみよう。 キム・ジソクのプロ デビュー直後である2000年代初期チェ・チョルハンは彼にとって最も越えるのが難しい天敵中の天敵だった。 2007年まで6戦全敗であった。 チェ・チョルハンは以後にも後輩キム・ジソクを要の時ごとに困らせてわずか2年前(2012年末)まで合計12勝4敗に追い詰めた。 永遠に越えることのできない壁と同じだった。

だが、状況は以後正反対に流れ始める。 逆にキム・ジソクが連勝行進を始めたのだ。 最近終わった第19回LG杯準決勝戦勝利でキム・ジソクはチェ・チョルハンに7連勝中だ。 “以前にジソクに会えば一手教えるという気持ちであったのだが、もう私が習う姿だ”準決勝に先立ちチェ・チョルハンがした話だ。 戦績が戦績だと見ると単純な冗談とだけ見ることもできないコメントだ。 つくづくと見ればキム・ジソクがイ・セドルの手中から抜け出し始めた時期とチェ・チョルハンを克服した時期がほとんど一致するという点だ。


キム・ジソクはカン・ドンユンとは同年齢だ。 幼い時期から天才少年としてたくさん比較されたし本人もライバル意識を持っている。 だが、プロ入段はカン・ドンユンが2002年5月でキム・ジソクより1年半もはやかった。 入段以後活動もやはりカン・ドンユンがさらに活発でカン・ドンユンが通算世界大会1個を含む7回優勝する間、キム・ジソクは3回優勝に終わった。

相手戦績でもカン・ドンユンは草創期3連勝含む2012年春まで6勝4敗でキム・ジソクを先んじた。 だが、キム・ジソクはカン・ドンユンとの戦線でも2012年夏から反撃を開始、5連勝してこれをひっくり返した。 現在まではキム・ジソクが9勝7敗で先んじているが、最小限幼い時期カン・ドンユンと関連して自身を困らせた劣等意識から抜け出したことだけは明らかに見える。


結局残るものはパク・ジョンファンだ。 知られた通りパク・ジョンファンこそキム・ジソクの天敵でありその格差だけはまだ狭められずにいる。 通算4勝14敗、勝率22.2%のみじめな成績だ。 2008年初めまでは2対2で均衡を成し遂げるとその年12月から2014年初めまで約5年余りの期間パク・ジョンファンが何と12勝1敗を記録した。 キム・ジソクは今年6月パク・ジョンファンの連勝にかろうじてブレーキをかけて一息ついたが追いかけて行くにはまだ遥かだ。
 

このような状況でパク・ジョンファンとキム・ジソクが2015年2月行う第19回LG杯決勝3回戦は非常に興味深い。 前途を遮った先輩、同僚強者全てに追いついたキム・ジソクが現役トップスターパク・ジョンファンまで越えられるかの関門前に立つことだ。

もし成功するならば20代半ばを越えた年齢に四才も幼い後輩皇帝の宝位を奪う計算なのだが、これは既存囲碁生理学(?)の通説をまるごとひっくり返す事件になる。 LG杯準決勝終了後インタビューに出てきたキム・ジソクはこのように話した。 “(パク)ジョンファンにたくさん負けたことは実力差のためだった。 年齢から来るプレッシャーは言い訳に過ぎない。 だが、決勝戦は1対1の勝負であり自分にも50%のチャンスはあると考える。”


これより2週間前、大田(テジョン)儒城(ユソン)では三星火災杯準決勝3回戦が広がった。 中国1人者ス・ウェを2対0で折って早目に決勝に上がったキム・ジソクは“ジョンファンが上がってくるように願う”とした。 韓国棋士どうし決勝を行って韓国優勝を確定させるという‘愛国心‘の発露という事もあって、後輩に向かった儀礼的応援でもある。

だがひょっとして自身の’最後の障害物’として残っているパク・ジョンファンとの勝負を本当に熱望して話した‘本気’ではなかったのだろうか。 万一推測が合うならばLG杯決勝はキム・ジソクには絶好のタイミングに整えられた‘オーダーメード対決’だ。 三星火災杯キム・ジソクの決勝相手はパク・ジョンファンではなくタン・ウェイシンで決定されたためだ。

 

キム・ジソクの‘歳月に逆らうこと’というのはいくら見ても不思議だ。 囲碁界‘突然変異’という表現が全く行き過ぎでない。 およそ2012年下半期から訪ねてきた彼の回春(?) 秘訣は何だろうか。 “本人は勉強法も、勉強量も変わっていなくて“と気まずがるのだが、筆者が観察したことでは何か行っている。 秘訣というよりは‘理由‘程度が合う。 もちろん柔道でからだを鍛えるなど体力的な後押しも役に立ったものと見られるが核心は心の変化にある。 彼は約3年前から囲碁に対する姿勢と態度に変化をむかえ、それが成績につながった。

以前(最小4年以前)のキム・ジソクは囲碁に、そして勝負に疲れているということが顔にまざまざあらわれたりした。 成長期のプロ棋士なら皆が体験する苦痛ではあるが、キム・ジソクは幼い時期から固く締めつけられてきた勝負ストレスに平均値以上の重圧感を感じてきた。

“5才の時に囲碁を習った後から十何年の間、毎日目だけ開ければ囲碁だった。 うんざりする感じをしばしば持って囲碁もつまらなかった。”彼は子供時代からすごい天才という賛辞を聞いて成長した。 そのようなキム・ジソクが研究生所属組で度々下に降りて行って、入段が予想より遅れ、プロ進出後にもかなり長く停滞期間を持った理由がまさにそれだった。

“このようなきっかけに考えを大きく変えることになりました。 私にとっては途方もない転換点に該当しましたよ。 今後の私の人生で最も大きい比重を占めるのは囲碁だが、それでも囲碁が私の人生の全てではないということを悟りました。 囲碁は序盤戦で若干亡ぼしても希望があるでしょう。 まだ私は人生の序盤戦だと考えると気が楽になり囲碁もうまく解決し始めました。 以前には序盤の部分戦闘で少しでも損をすればとても焦ったのに、最近は勝負は長いと考えます。 いつか私は突然囲碁界を離れて他の勉強をするかも知れません。 数学や科学側に関心が多いですね。”

誰でもこのような‘解脱’が可能なことではないだろう。 キム・ジソクは抜群の才能が深刻なプレッシャーになってまともに息ができなかったケースだ。 キム・ジソクのように卓越した棋才と、人生の大きいビジョンに対する悟りを兼ね備えるというのは誰もができることでない。

彼はレンガを積むように1階段ずつ踏んで上がることだけで大きな地が完成するという囲碁界不文律を見栄え良く裏切った。 20代半ばで世界舞台辺境から飛び出して、一躍ミッド フィールドに進出して3つの城で刃を競うこの不らちな挑戦を神が許すのか大きい好奇心で見守ることだ。 ‘透明鏡’の盤上の科学者は囲碁界に向かってどんな実験リポートを提出するだろうか。