「囲碁は、読書に次ぐ文学的体験である」 

なぜ囲碁を習えば良いのか? 習えば賢くなる東洋の知恵

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▲韓国ギャラップ調査研究所で全国民を対象に囲碁に対する世論を調査するたびに父兄は囲碁の教育的効用価値に高い点数を与えた。 囲碁大会に出場して没頭してうれしがる子供たちの姿. 囲碁は子供の情緒安定と集中力向上に多いに役に立つ。 <写真/月刊中央>




碁盤は創意的な発想、深い思考力の土壌
克己と自分訓育を実現する肉体・精神鍛練の場 

囲碁は去る数千年間東洋の知恵を凝縮した人文学ともすることができる。文学と哲学、歴史と科学の要素があまねく含まれている。スポーツであり高度な精神活動であり、節度ある礼儀を習うことができる教育の空間だ。碁盤の前に座った子供たちには‘精神的アトピー’がない。 

記者として囲碁界に足を入れて以来“どのプロ棋士が本当に天才棋士でしょうか?”という話と一緒に最も多く聞く質問が“子供に囲碁を教えればどんな点が良いか? 本当に頭が良くなるか?”という問いだった。 このような時ごとに筆者は次の通り答えたりする。 

“これだけは確実に申し上げることができます。 碁を打てば自分中心の考え方、範疇に限定されないということ、他人を思って配慮する人間関係の基本だけは自ら体得することになります。 人生というのが人間関係ならこの学習だけでも子供に囲碁を教える十分な価値があると考えます。”

なぜそうなのか? 囲碁はたった一手でも次の手を見通すようにする習慣をつけるからだ。 私がここに置けば相手はあそこに置くことですると私はこのように受けてその時相手は再びこう置いてくるだろうし…. このような形で見通すことが囲碁の読みだ。 読みは囲碁の要諦だ。


 

相手の立場で考える習慣を入れるようにする囲碁

我田引水式な思考は囲碁ゲームで接するのではない。 私たちの日常生活で、ビジネスの場でいつも犯す愚かさの一つだ。 なぜこういう愚を冒すのか? まさに欲のせいである。 

あらゆる事を自分中心でだけ考えて盤を組むならば相手の意図と背景を見逃しやすい。 囲碁は交代で互いに一手ずつ置くゲームだ。 基本のうちの基本である囲碁ルールだ。 守勢に追い込まれようが攻勢を取ろうがどうであれ、互いに公平に一手ずつ交点に置くこと、囲碁ではこれが‘公正性’でありこの公正さを基にゲームがなされる。

このように囲碁は互いに公平に一手ずつやりとりする一対一の戦いに加え、他の誰の助力も受けることはできない。 それなら勝つためにはただ相手の意中を把握してそれに対処できる手を講じることのほかは秘訣がない。 私たちが話す碁石(着手)の効率はここで始まることであり総合的である思考力はここから形成されることだ。 

前提条件は互いに一手ずつしか置くことができなくて、目的は勝利という点だ。 それなら相手の着手よりただ1%でもさらに能率的な手を毎度駆使すれば良い。 そうするためには相手の着手が持つ意図を看破することが何より重要だ。 自然に熟考することになって戦略を考えることになる。

囲碁ひと勝負を終わらせるにはおよそ200余手以上を置かなければならない。 毎手ごとに相手の見解でそちらに着手した背景と意図を考えた後に自分の手を持ち出すことになる。 これがいわゆる囲碁でいう‘読み’だ。 経営的観点で見れば未来予測であり意志決定の過程だ。 読みは打者の考えを読む‘スキャン’行為だ。

このような作用をひと勝負でなく1年以上着実に繰り返すと考えてみなさい。 このような訓練が身についた子供とそうではない子供の間には明らかな差があるんじゃないだろうか。 囲碁を習うといつも落ち着かなかった子供が物静かになったとか、冷静になったという話が出る理由だ。

両親たちの“頭が良くなるか?”という質問には‘知能啓発’と‘学習効果’の二つの疑問を敷いている。 頭脳発達的な面ではソウル大病院精神健康医学とクォン・ジュンス教授研究チームが脳映像研究を通じて、長期間の囲碁訓練が頭脳機能を発達させるという事実を明らかにしたことがある。

韓国棋院のように遂行したこの研究は平均12.4年囲碁を訓練した囲碁プロを対象に脳の機能が一般の人たちといかなる差があるかを糾明した。 その結果、囲碁人は一般人に比べて情緒的処理、直観的判断を処理する脳部位が互いによく連結されているという。

脳の機能的連結性が優れるということは一つの刺激に対して目的に適合した役割をより一層よく遂行できることを意味する。 もう少し簡単に説明すれば、脳部位のうちには視覚的な情報処理をする部位と長時間感情コントロールをしながら平常心を維持する部位があって、そのような部分が脳全体に他の部分と連結される事を脳連結性という。 このような機能の程度が一般人より優れるということだ。

かつて‘右脳開発、成績向上にこれが最大効果’として <囲碁で頭がよくなる>という本が日本で話題を呼び集めたことがある。 弁護士でありプロ8段の棋士である著者笠井浩二は“知識を習得する前に思考の根源を育てることが重要だ”として“囲碁は思考の基本的な訓練を助けて論理性・思考力の訓練に役に立つので結果的には学校成績の向上をもたらす”と主張する。

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▲インテリジェントゲーム チョン・ジェボムさんが博士学位論文で明らかにした囲碁熟練者と初心者の脳写真.(左側)熟練者の脳が初心者に比べて活性化率がはるかに高く現れた。 <写真資料/月刊中央>

 

囲碁は教養と礼を教える人文学

学校成績向上までは分からない。 国内プロ棋士のうちでも西江(ソガン)大で英文学を専攻してソウル大政治学博士学位を取ったムン・ヨンジグ(プロ5段から引退、現在の中央日報囲碁担当客員記者で活動中だ)のような方やソウル大英文科を出て明智(ミョンジ)大囲碁学科教授で在職中であるナム・チヒョン初段のような場合は学業と囲碁両方に優れた素質を見せることはした。

囲碁で進路を定めて学業を中途であきらめてそれ以外の筆者が知っている大多数のプロ棋士は全て学校成績も優秀だった。 

何をしようが頭の回転がはやい人々だ。 だが、一般的に成績が良い人を頭が良い人だと考えやすいがこれは一致させることができる言葉でない。 別個の意味だ。 そのような観点で私たちがよく‘勉強頭’は別にあるというように‘囲碁頭’も別にあるというのが筆者の考えだ。 囲碁を習って学業成績が良くなるならば無条件必須教科に入れなければならないだろう。


カサイ・コージ8段が定義する‘頭が良い’という意味は
①記憶力が優れて
②理解力が優れて
③論理的な思考力があって
④何かを発見したり推理するのに前提になる直感・感覚・逆転の発想が優れて
⑤このような事を対外的に表現する手段として説得力・決断力・実行力・努力を備えている人
をいう。

この五種類を‘頭が良い’という基準点とするならば、囲碁の他にどんなものが浮び上がろうか? 両親の強権や詰め込み式の教育でなく、自らが好きで楽しむことができる遊びが囲碁だ。 当面の成績にこだわるならば‘ピンセット課外先生’を探す方がさらに賢明だろう。 そうでないならばこの際一回ぐらい囲碁学習を考慮してみるのも良い方法になるだろう.

世相の荒廃が激しくなって青少年に‘人文学の重要性’を強調してまた、強調する世の中だ。 言葉どおり人間に関する学問が‘人文学’だ。 それなら人間の考えと行動、人間関係を探求するアカデミックな学問だけを人文学範疇に限定させることはできないだろう。

単にゲーム、遊びとして片付けるかも知れないけれど‘囲碁世界’でもまた習うことが多い立派な人文学の一分野だ。 囲碁は私たちの魂が宿った固有の伝統遊び文化としてそれだけでなく学問(すでに大学に囲碁学科が幾つもある)・スポーツ・教養と礼度などすべての領域にあまねく広がっている。

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▲最近の子供囲碁大会は競争の場を離れて家族祭りに位置した。 ママとパパが子供の手を握ってついてきて思い出を'着手'するイベントだ。 遊びとして囲碁はおもしろい。 おもしろくて色々な教育的効果をみると嫌いな両親がいるだろうか。 写真は昨年キム・サッカ杯の風景.

 

囲碁の本質を知るための方法で囲碁の発明過程を探求してみる道がある。 最近囲碁が教育的効用価値が高い教材として放課後学校で大人気を享受していることもまた考えてみれば偶然でない。 古代から囲碁が教育的目的で使われたという記録が見えるためだ。

囲碁がいつ、どこで、どのように始まったかに対しては正史に正確な記録が残っていないけれど4千年前中国尭舜時代に作られたとのことが定説になっている。 尭王と舜王が息子丹朱と商均の愚かさを悟る目的で作ったとのことが‘尭舜創始説’だ。 

博物誌と説文、太平御覧、玄玄棋経などにこのような記録が現れる。 もちろん尭舜王時代が神話と歴史がかみ合わさった時代なので尭舜の時に囲碁が作られたという話も歴史的事実というよりは後者が作り出した神話であることと考えられる。 ただし囲碁がどんな用途で使われたかに対してだけは注目する必要がある。 

‘愚かさ’という表現を今の言葉の意味でそのまま受け入れて尭舜王の王子全て白痴だったと解釈することはできない。 これらの愚かさを悟る目的で囲碁を教えたというのは囲碁で国を治める知恵を伝授したという意味なので、これはその時期囲碁が帝王学の教材だったとの推論が可能だ。 リーダーを養成する学問であったという話だ。

 

集中と没入の楽しみ、疎通の道具

‘生きている棋聖’としてあがめられている呉清源9段は囲碁の起源を尭舜王以前で捉えて囲碁は本来天体を観察する道具だったが、これが今日の囲碁として変形されたものと主張する。 空の星座を記録した機構が碁盤でありこれで天文を見回して易を問い詰めたと見たのだ。

したがって尭舜王が王子に囲碁を教えたという記録はまもなく祭政一致時代の帝王授業という論理だ。 王子に多くのものの中であえて囲碁を教えた理由が何だったか?

古代農耕時代、王の役割は星座を見回して種をまかなければならない時期と穀物を取り入れる節気を正確に計測して民に教えることが最も重要だったことで、王の権威はここから出てきた。 星座を観測して記録して農耕の時期を計る機構が碁盤であったということだ。

碁盤が縦横19行361目、春夏秋冬365日の陰陽五行の道理が入れられた宇宙の縮小版または、人生の縮小版だと私たちがよく話すのも決して全くでたらめな声ではない。 

‘ナツメ一粒’の詩人、チャン・ソクジュは囲碁の一番の徳目として‘没入の喜び’を入れる。 マラソンの35km地点を‘心臓破裂丘(Heart break hill)’という極限に達したこの地点で、あたかも麻薬のように幸福を感じさせるセロトニン ホルモンが噴出する気持ちを感じるという。

チャン詩人は碁を打つならばこれと似た気持ちを感じるといった。 麻薬類ではなく、このように集中する健全な趣味は囲碁が唯一無二だということだ。 

‘純国産囲碁’として有名なソ・ポンス9段は“カードとか何か色々これまで多くのゲームをしてみたが囲碁よりおもしろいことには出会えなかった”として“囲碁は人類が考案した最もおもしろいゲーム”と断言する。 確かに囲碁がこれほどの魅力を持つことができなかったとすれば4千年余りを存続してこれようか。

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▲コンピュータと携帯電話によって家族間対話が失踪した現実だ。 するな、しないでとすればするほどより一層陥る普通だ。 幼い時から囲碁を習ってその妙味を知るようになるならば暴風雨のような青少年時期を過ごす事に有用ではないのか。 囲碁を称して棋譜談といったところはそれ位の理由がある。


 

コンピュータゲーム中毒が社会問題化されている現実だ。 特に青少年に及ぼす弊害は深刻な水準なので‘シャットダウン制’が施行されて‘ゲーム中毒法’が発議されるに至った。 私たちの社会が急速な産業化過程を経て‘さらにはやく、さらに多く!’にだけぶらさがった副作用が子供たちにまで続いている。 

まともに遊ぶ方法を知らない大人と同じように入試勉強に見舞われた子供たちはやはり再生産の動力になる余暇の遊び文化を探せないまま、ただ刺激的なゲームにぶらさがったり携帯電話だけつかんで生きる状態だ。

心が豆畑に行っている子供に、声を限りにいくらコンピュータ ゲームを自制しろと大声を張り上げても効果がない。 ところがアナログ的な囲碁ゲームは没入の楽しみを与えるのでこのような時、一つの代案(遊びを通した習得)になる。 つまらなければ興味も関心もない。 囲碁はひとまずおもしろい。

その上囲碁はこの上ない疎通の道具だ。 囲碁の別称が手談、‘手で交わす会話’ではないのか! 老若男女全て無難に合うことができる媒介体だ。 一度考えてみよう。 この頃両親と子供が共に共感して楽しむことができるゲームが果たしてどれくらいあるのか?

同じ空間に居住しても子供たちは子供たちだけで携帯電話から目を離すことができなくて、大人は大人でTVに捕らえられて生きるのがこの頃の日常ではないのか? 文化心理学者であるキム・ジョンウン教授は話す。 “余暇を一言で定義するならばコミュニケーション技術だ。 人との疎通、自分との対話、これは余暇においてコインの両面だ。”キム教授の言葉のように‘人との疎通、自分との対話’こそ囲碁の姿だ。

囲碁はちょっと見ただけでは相手の話(石)を攻略する死活ゲームと見えるが勝負の結果は地の多い少ないで決める。 この点がチェス、将棋との違いだ。

王(キング)を捉えればゲームオーバーであるチェスや将棋は盤上の駒を一つずつ捕まえて行く消滅のゲームなのに比べて、囲碁は石の価値を最大化して置かれた石の効率を有機的によく生かす側に盤を組んでこそ勝つことができる、プラスの属性を持つ。 チェスや将棋が遊牧民の習性を持ったゲームならば囲碁は農耕社会の集積文化があらわれる遊びという人もいる。 

 

碁盤での代理体験が貴重な理由

死んで生きることぐらい重要な事がないように囲碁でも死活は非常に重要な基本技術だが単に石の死活だけを争うのではないので形勢を見る判断やバランス感覚が必要だ。 小さいのを捨てて大きいのを取る‘捨小就大’の見識を育てなければならなくて地の数では計測できない厚みに対する価値判断力も備えなければならないだけでなく、相手の棋風にともなう戦略もたてなければならない。 

いわゆる大きい枠組みでの大局観をいうことなのだが、かつて呉清源9段は‘囲碁は調和’という言葉で定義した。 こういうものは思考の柔軟さから出る。 手を読んで価値に対する比較判断を絶えずして、部分でない全局的な形勢判断が要求される。 囲碁ゲームを通じて知らず知らずに論理的思考力や柔軟な思考方法を習うことになるということだ。

‘ひと勝負の囲碁には喜怒哀楽の人生が含まれている’としてしばしば話す。 碁を打つのに肝に銘じなければならない心がけと知略を十種類で圧縮しておいた囲棋十訣に私たちが生きていくのに指針になるほどの人生教訓が多い理由がある。 一度きりの人の一生は囲碁のように何度も置くことができない。 それで碁盤での代理体験が貴重だ。

児童時期を‘遊び時期(toy age)’という理由は幼い時期には遊びを通した学習が重要なためだ。 多くの失敗をたどりながら得した事と害になる事、しても良い事と避けなければならない事などを体得することになる。 忍耐心もまた、繰り返し体験する失敗で習う。 ‘石仏’イ・チャンホ9段も先天的に‘不動心’を持って生まれたのではない。

話に出てきたついでに少しの間頭を冷ますのをかねてイチャンホ9段についてのエピソードを聞かせて差し上げる。


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イ・チャンホも人だ

“プロがきつく決心すればアマチュアを何子までたためますか?”プロ棋士は大層鬼神のような実力を備えたので心持ちにより、思う存分アマチュアを料理することができるという考えを囲碁ファンたちは持っているが、プロの返事はとんでもない。
“それは純粋にアマチュアの心により変わります。”
置き碁の勝負は定数でなく下手の手にかかったという話だ。

下手がどれくらい自ら自滅するかどうかによって格差は想像外でたくさん広がることがあるということだ。 すべてのことが心持ちにかかった(一体唯心造)話は囲碁勝負でも通じる。

まったく表情の変化がなくてポーカーフェースと呼ばれるようになるイ・チャンホ. 形勢判断とヨセの計算手並みはスパコンを越えて‘計算の神(神算)’という境地まで上がったと賞賛を受けている彼だが、彼も人間なので人間的な、あまりにも人間的な過去の歴史(?)がどうしてないだろうか。

イチャンホ9段が国内のかなりのタイトルをほとんどすべて持った時の話. ある日、韓国棋院棋士室にいつになく数多くの棋士が碁盤を囲んで各々一言ずつ野次を飛ばしていた。 

“オ? チャンホ大石がまたなくなったよ。” 
“オイ、世界最強が4子まで崩れるという事か?”

韓国棋院棋士室では普段練習囲碁がたくさん置かれる。 そうするうちに時に茶目っ気で一勝負に一子ずつ置き石を増やしたり減らしたりする手合割マッチが広がる時もあるが、この日‘盤上の孫悟空’として呼ばれる早碁の達人ソ・ヌンウク9段の如意棒にイ・チャンホ9段がかかっていたのだ。

もちろんソヌンウク9段も3子まで崩れたりもしたがより一層訴えたのは第一人者イチャンホ9段が4子まで崩れたという事実だった。 

一勝負に20分もかからない秒速早碁でもあったが、殴る姑より止める小姑がさらに憎いと、囲んで一言ずつ野次の入れ知恵に天下のイ・チャンホも頭にきたし、これまで公式対局では一度も負けた事がないソヌンウク9段に何と4子まで崩れてしまったのだ。 うす赤くただ炭火のように熱くなるだけ上がった顔に立ち上がって投げたイチャンホ9段の最後の一言はこうだ。

“ウワ~、ソヌンウク師範! どんなことがあっても明日ここに(棋士室に再び)必ず出てこなければなりません。”

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▲入段したばかりの頃のイ・チャンホ.

 

復碁で習う-囲碁は礼節のゲーム

複碁というのは、自分が置いた囲碁やまたは他の人が置いた囲碁を再び置いてみて最善の手を探す行為をいう。 その他ゲームやスポーツは競技が終われば挨拶して再びは見ないように後ろを向いて競技場を離れるが囲碁は数えを終えたといって終わったのではない。 勝者と敗者に別れて敗因と承認に対する意見を交わす囲碁だけの光る美徳がある。

初めから最後まで、あるいは明暗が分かれた勝負所を集中分析する過程で敗者は敗者のとおり、勝者は勝者のとおり反省をして教訓を得ることによって一歩進むことができるためだ。 これが囲碁の礼儀で相手を尊重する心だ。

囲碁は相手に対する礼を尽くすことから始まって礼を表わすことで終わりにする。 囲碁をまともに習った人は碁盤の上に碁笥の他にはどんなものも乗せない。 碁盤の上に新聞紙を敷いてラーメンを食べるような人は断言するが囲碁をまともに習った人ではない。 囲碁に対する姿勢がこのようなら囲碁を習ってどうして礼儀の法度が身につくだろうか。

勝ったとして喜喜楽楽、意気揚揚なインタビューを受けているプロ棋士を筆者はいまだにただ一人も見たことがない。

囲碁はその他スポーツのように審判があえて常駐する必要がない明らかなゲームだ。 入れ知恵のようなものは夢も見てはいけない。 昔日本の侍時代には入れ知恵は間違ってもきゃっと声も出せなく、首が飛ぶこともあった。 碁盤をひっくり返せば裏に三角形でペコンとへこんだところがあるが、これを日本では‘血溜’と呼んだ。

そばで入れ知恵をした者が自分の意志で首を切ってその血を受けるための穴だという、聞いただけで背筋が寒くなるという声があるほどだ。 ‘囲碁は孤独な勝負’、‘自分との戦い’という話もそれで出てくる。

 

想像力で創造性が出てくる-人文学の要諦、囲碁の要諦 

キム・ヨンミン延世(ヨンセ)大独文科教授は彼の著書 <10代にすすめる人文学>にて人文学は新しい枠組みを作り出すことができる創造力と想像力を呼び起こして、それで人文学的素養が強調されること”と話す。 同じボードゲームで見ると囲碁としばしば比較される将棋とチェスは盤上に駒を事前に配置して置く。 これに比べて囲碁は自由布石制だ。 空の碁盤から始まる。

自由布石制は対局者に、戦わずとも勝つことができないだろうか、そのように悩むようにしたし、これは無限の想像力を呼び起こす出発点になった。 創造的発想が後押しされずには高みにのぼることができないのが囲碁だ。

ムン・ヨンジグ博士は自由布石制に対して“それは多様な手法、例えば石を捨てる作戦や削減と同じ手法を創案できるようにしたこと、日本の急激な発達はこれに対し力づけられたことだった”と話す。

今日私たちが置く現代囲碁が自由布石制囲碁だ。 想像力と創造力が人文学的素養ならば囲碁にはそのような原型の塊が溶けている。 

囲碁が単につかみではないとの主張はすでに陳腐だ。 数千年囲碁史に今までただひと勝負として同じ囲碁が置かれていないというのは何を意味しようか? 同じ道を歩かないこと、すなわち碁盤は想像力の原型であり創造の源泉だという点を雄弁に語っていることだ。 囲碁に人文学的要素が充分に敷かれていて話せる理由はこのようにあふれる。

数多くの文人画家が囲碁詩文を残して、私たちの先祖が琴棋書画といって高尚な人がおよそ備えなければならない4種類徳性のうちに囲碁を入れた理由、朝鮮時代は老若男女が地位上下を分けないで囲碁を楽しんだ黄金期であり朝鮮実録に記されている囲碁表現だけでも300件余りに達して承政院(スンジョンウォン)日記にも200件を上回る記録があるほど朝鮮王たちまで囲碁を近づけたのは囲碁が単につかみに留まらなかったためだ。 

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▲フランスのある小学校で開かれた子供囲碁大会. 教師と父兄、クラブ囲碁人も共に参加して東洋文化の深い香りを味わっている。 多くの国で囲碁が内包している長所に注目して子供たちに囲碁を教えている。 <写真/月刊中央>