[盤上の香り]棋風柔軟な高川格「流れる水は先を争わない」::ニュースzum 
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▲1950年代末、呉清源(左)と藤沢庫之助の対局。盤上ではマネ碁が繰り広げられている。対局者の中央に見える棋士は坂田。宗教的な品性が強かった呉清源はいつも坊主姿だった。(写真=日本棋院)


小柄ながらも恰幅のいい体型で、鋭い眼光を放つ壮年の男。部屋のすみで花札を弄んでいる丈和だ。机の前に座り、背中を正して兵書読む黒い眉毛のアバタ顔の男。因碩だ。 

  19世紀初めの日本。宿敵の丈和(1787~1847年)と幻庵因碩(1798~1859)の対局はいつも熱気を含んでいた。囲碁は一日や二日では終わらないので対局中の休息は家で取った。そのたびに2人の対局者の態度は違った。丈和は花札の札を取り出し、因碩は兵書を読んだ。

対照的な2人の棋士は名人位をめぐり深慮遠謀の争闘を繰り広げた。丈和が勝った。因碩がけちをつけようとしたが丈和は問題をうまく避けて通った。政略的に名人位に上がった。2人の棋士戦績で丈和が先んじたことは事実だが、因碩も実力では名人級だった。人間史の不条理なのだろうか。 

 

時越・范廷鈺からは哲学不在が見える 

  囲碁は難しい世界だ。うまく打ちたいがなかなかそうはいかない難しい世界だ。なぜだろうか。囲碁は形の遊びだ。ところが形は本来描写的で、描写は自己確定的だ。対局者は形からなかなか抜け出せない。ジレンマが生まれる。形にだけ閉じこもっていては形の遊びで以って遊ぶことができない。閉じ込められるからだ。

それにもかかわらず、形の中で遊んでこそ形について若干ではあるが悟りを得ることができる。1日じゅう囲碁だけをやたら打っていてもうまくいく世界ではないことが分かる。分かっていても思い通りには行かない。そうだろうか。 

  ところでだいたいうまく打てるということはよく知っていることを前提にしているのではないのか。名人は何を知っているのだろうか。表「人物と見識」は過去100年の名人級の一言を集めてみたものだ。この他にもあるが惜しいことに筆者の記憶はこの程度だ。 

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  表を詳しく見てみよう。因碩は「囲碁は運の芸」と言った。芸は芸術的な価値を持った技を指す。囲碁を社会的な価値の水準から定義した。呉清源の「碁は調和なり」。これは本質を説破する水準だ。 

  丈和は「中」。老子の哲学だ。もちろん囲碁の本質がこれ一つに限定されるものではない。 

  他の棋士の表現には棋士個人の棋風や勝負哲学が表われている。 

  「勝つ者が強い」と言う木谷。「(木谷には)ほとばしる鋼鉄のような力があった」という藤沢秀行(1925~2009)の回顧があった。

「流水不争先(流水先を争わず)」。高川の囲碁は流れが柔軟だった。別称が「平明」だった。

「囲碁は悲しいドラマ」。そうだ。坂田の囲碁は激烈だった。戦いには明るかったが戦いの中で展転した。鬼気迫るものがあった。武宮の宇宙流哲学は最近のものだ。若かったころのものではない。明るいのは良いのだが、一貫する観念が入っていない。

趙治勲の「たがか囲碁」はいつ会得したのか。齢五十を越えた時、タイトルも失い力も消えて疲れていたころに得た。囲碁に「何か」があるといって人生を投げうったが、「実は何もなかった」という印象を受ける。しかし結局は自彊した。「されど囲碁」。 

  時越と范廷鈺の一言は2012年に出てきた。志はあるが哲学の不在が伺え、内容のない希望を吐露した程度だ。年齢はまだ若いが今日の囲碁世界が開いている地平の限界を正面から感じる。 

  古今を振り返れば名人の水準に達した棋士は多かった。しかし囲碁に対して何か一言格言を残した棋士は殆どなかった。 

  ところで過去100年の間には5~6人の棋士が囲碁について一家言残している。偶然だろうか。そうではない。偶然でない。それは日本棋院の創設と新布石革命からきた。 

 

80年代に崩れた日本囲碁…哲学からも遠ざかる 

  19世紀末、封建的な幕府政権が崩壊した時、囲碁の4大一族は俸禄が断たれて生計をおびやかされた。彼らはついに伝統を捨てて1924年に日本棋院を誕生させた。

市場経済の中で、法人として世の中を生きていくことに決めた。棋道から囲碁のアイデンティティを見出した。伝統が与える権威でなく、個人の実力を重視した。市場に登場すると圧力が押し寄せた。棋士は日本棋院が提示した囲碁のアイデンティティに一役を担当しなければならなかった。その役割を相異性と相補性に求めなくてはならなかった。 

  あなたと私は違う(相違性)。違うから互いに助けることができる(相補性)。社会体系の中で個人と階層、階級の機能を確認する人類学の命題だ。時間が過ぎ、相違性を確認する必要があった。 

  棋士の名前の前に別称がつくようになった。神通の呉清源、華麗の藤沢、美学の大竹、宇宙流の武宮、平明の高川、鋼鉄の木谷らがそれだ。別称は棋風を反映した。囲碁にあるかもしれない属性を適切に表現した。哲学の素材も与えられた。 

  1930代の新布石革命。盤上にパラダイム革命が起きたのだ。パラダイム革命は世界観の革命。世界が変われば個人は各自自らの世界を再解釈する過程を体験しなければならない。

囲碁における解釈者は棋士個人だ。したがって世界の解釈過程は棋風の自覚過程とも言える。解釈と自覚は実験として表し、検証を受けなければならなかった。相手の後を追って打つマネ碁が代表的な事例だ。 

  呉清源が黒でマネ碁をしたのが1929年だが、藤沢庫之助(1919~1992)は白でマネ碁を実験した。勝ちもし負けもした。万人が反対しても彼はマネ碁を貫いた。写真は1950年代末のマネ碁だ。この碁は67手まで打った後マネをやめた。  

坂田は三々を実験し続け、70年代には中国の陳祖徳9段 (1944~2012) が提示した中国式布石を梶原武雄9段 (1923~2009) が先駆的に研究した。さまざまな理論と実験が日本囲碁の1920~80年代を覆った。

日本棋院の設立と新布石は双方共に二重性を持った革命だった。新布石は従来の世界を崩すために無秩序を持ってきた。日本棋院の設立も幕府時代の伝統を否定するところから出発した。やはり無秩序をはらんでいた。 

  人間は、すべてのことに耐えることができても無秩序には耐えることができない。間違ってもいい。棋士は秩序を見つけなければならなかった。秩序を見つけて荒々しい広野に出た人々がいた。木谷や高川、坂田、藤沢らだ。日本棋院の創設を共にした彼らは囲碁に対して責任を持っていた世代だ。責任の自覚は無秩序を認識すること。すなわち哲学の出発だ。囲碁はこのように広がりをもつようになった。 

  1980年代以降は哲学を考えるのが難しい時代だった。哲学は日本棋院の創設に衝撃を受けた世代がすべき仕事だった。その世代は年を取って勝負から遠ざかった。彼らが消えて日本囲碁も崩壊し始めた。1980年代末、日本囲碁はついに終わりを迎えた。 

  最近、日本には棋士の名前の前につく別称はほとんど見られなくなった。依然として個性を重視する文化だが、しかし棋士の棋風が持つ躍動感は1920~80年代に比べれば責任でも哲学でも力が顕著に落ちる。これは全くおかしなことではない。我々の名前は社会の中での役割と機能に深く連動しているためだ。文化と組織の成長と衰退、その長い過程がはじめて姿を表わした。 

 

兵法が与える形の沼に落ちた中国囲碁 

  囲碁は形の遊びであることは先述の通りだ。描写が核心である囲碁は、まさにそのために形の自己確定性に陥りやすいといった。中国囲碁は兵法が与える形の沼から抜け出ることができなかった。兵法は囲碁を歪める。兵法は本質が詭計だ。盤上には全てのものが表れ、詭計を弄することができる場所はどこにもない。しかし中国は一度も「兵法は囲碁の属性」という命題を疑ったことがなかった。 

  前面に出した命題はメガネと同じだ。メガネについて話すから分かる。分かるということは「1対1」の対応をいう。「私はあなただ」という命題で「私=あなた」だが、「私はあなたを理解する」という命題も「私=あなた」が核心だ。それが分かるということであり、意味するということであり、理解するということだ。 

  囲碁もそうだ。囲碁を理解するには正しい対応が必要だ。 

  では因碩と丈和についてもう一度見てみよう。兵書を読む時、兵書と因碩は1対1の対応する。兵書と囲碁は1対1の対応する。兵法が囲碁に入る。19世紀はじめにも兵法は囲碁の周囲にあった。因碩は囲碁を直視できない。丈和は花札の札を弄んだ。囲碁と花札は別個だ。誰も連結させない。無関係なことはそのまま関係がないだけだ。囲碁の直視とも関連がない。

丈和名人が残した言葉がある。「碁を打つ時は考えるな」。論理水準で理解できるものではないから、体と心を一つにしろ。そういうことだ。丈和名人には「現実と囲碁」を対応させることと「集中か妄想か」の間で悩んだ形跡がある。 

 

日本棋士の敬虔さ、韓国国手と対照的 

  日本の話だけをしているようだ。なぜ韓国と中国には「一言」がなかったのだろうか。1930年代のエピソードは切実だ。訪韓した日本棋士が老国手(名人級の棋士)と碁を打った。置き石は2子。ユ・グァンヨル先生(当時、毎日新報論説委員、1898~1981)が当時のことを振り返りながらこのように話した。 

  「その時、橋本の対局態度はとても印象的だった。敬虔なことこの上なかった。韓国の国手は対局してやめてもウリをバリバリ食べていたが…」 

  1950年代に至るまで、韓国では賭け碁が一般的だった。中国の囲碁には兵法隠喩が非常に強く、また賭け碁が日常だった。碁を打つ人々にとって、囲碁は自身と一体だ。棋士に囲碁はそのように作用する。したがって人生を投げうってこそ出てくるものが囲碁の哲学、「一言」だ。投げうたなければ一つになることはできない。

賭け碁の水準では哲学どころか、いかに小さな命題ですら出てはこない。賭けは疎外現象-自身と自身の事が別個になる-の典型であるためだ。1対1は成立しない。 

  韓国も55年には韓国棋院を創立した。しかし新布石の革命的な衝撃は経験できなかった。おそらくその差が勝負哲学に対する談論が不足することになった理由でないだろうか。  



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ムン・ヨンジグ

西江(ソガン)大英文学科卒業. 韓国棋院5段. 1983年入段. 88年第3期プロ新王戦で優勝、第5期バッカス杯で準優勝した。 94年ソウル大で政治学博士学位を受けた。 著書では『囲碁の発見』 『主役の発見』など多数.

ムン・ヨンジグ客員記者·プロ棋士moonro@joongang.co.kr


※今回の翻訳はほぼ中央日報日本語版からの丸写しですが、タイトルは韓国記事原文のもので、本文の囲碁用語等間違っている箇所があったのでそのへんを修正しています。あと改行も変えてます。