新鋭記事の相次ぐ惨敗、さすがに実力だけの問題なのか? 

新鋭棋士の相次いだ惨敗、果たして実力だけの問題であろうか?
対局写真で見た、ある中堅棋士の見解

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▲世界最初の新鋭世界大会2014利民杯世界新鋭囲碁最強戦で本戦チケットを手にした主人公. 全部中国だ。 ヤンディンシン(左側から),シャチョンクン、コジェ、タオシンラン、トンモンチョン、チョンハオまで。 韓国はいない。 (写真=中国新浪囲碁)



もしかしたら突然な話

これは聞く人により本当に突然な話. そのような見解であり指摘される(?)ことである。 最近いくつかの世代に見られる事だが、最近の世代に全く似合う方法ではない、なので ‘ラメ’(あれこれ正しい基準について些細なことまで不便を冒し執着している人)のような気配がしているという反論を買うこともできる後日話だ。

以下は‘ムン・ヨンジグの囲碁散歩’記事が載ったので蛇足のように付け加えてみる‘突然な記者手帳’のようなものだ。 


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▲日本囲碁の次世代走者で注目されている一力遼の鋭い目つき. グロービス杯優勝者の目つきだ。



4月30日から5月3日まで中国、杭州で開かれた2014利民杯世界新鋭囲碁最強戦で我が国の嘱望される新鋭棋士がたった1人も本戦に上がることができなかった。 利民杯はプロは1994年以後、研究生は1997年以後出生棋士だけ集まって競う新鋭だけの世界オープン大会だ。 今まで韓中日3国、あるいは二国間新鋭大会や交流戦はたくさんあったが本格的に決心してこういう‘青少年ワールドカップ’のような世界オープン大会を開いたのは初めてだと関心を持っていった。

何より各国のトップが参加する各種オープン大会で近ごろ韓国は中国に完全に押される様相を見せたので次世代有望株の程度はどうか、計ってみるほどの大会であるからより一層注目が傾いた。 ところが韓国は26人(プロ19人、アマチュア7人)が出場して6人を決める本戦にたった1人も上がることができなかった。 

引き続き五日後、日本が満20才未満の新鋭が競争する第1回グロービス杯世界囲碁U-20という大会を開いた。 利民杯より年齢制限がさらに低い大会だ。 この大会でも韓国は3人の選手(ナヒョン、シンジンソ、チェジョン)が参加したがたった1人も4強にさえ上がることができなかった。

この大会は制限時間30秒以内に置かなければならない(途中1分ずつ10回の考慮時間を与える)早碁戦であっても、予想をひっくり返して日本選手二人、一力遼(17,優勝)と許家元(
17,準優勝)が4強で並んで中国選手を負かして決勝戦に上がって驚かせた。

国際舞台で振るわない日本はいつのまにかほとんど台湾と同じ取り扱い(?)を受けていた。 韓国や中国棋士は日本の棋士に会えば表情管理をしたりした。 ‘花組’に会ったと考えたし、実際大きく気を遣わずとも勝ってきた。 そうだったのでグロービス杯で見せた日本新鋭棋士の‘気炎’が驚くべき‘反乱’ではないだろうか。


長い生活の中で戦闘で負けたり勝ったりと代わるがわるするのは常にあることだ。 勝つ時もあれば負ける時もあることであり、今回のようにずっと惨敗を体験したりもすることだ。 だが、兄に続き弟まで国際舞台ですぐれない手を見せているのは、懸念の恐れがあったことだ。

真に実力が足りないことであろうか。 実力が足りなくてそうならばあらゆる理由がみな言い訳だろう。 ある中堅棋士がサイバーオロニュースにのせられた私たちの新鋭の対局写真を見て獅子吼をさく烈させるように一喝する。
“実力の問題でなく勝負に臨む姿勢の問題だ!”'


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▲手がかかる~手がかかって~碁笥に手が~


上の2枚の対局写真で碁盤を見れば石がいくつか置かれている。 布石段階なのに一選手は碁笥に石を握った状態で相手側は真っすぐに腰を伸ばしたまま囲碁を全体的に見下ろしている姿勢だ。

どちら側が私たちの選手たちであろうか。

序盤から上体を多少低くして片方の手をあごに当てる姿、どちら側がしばしば見るだろうか。

いらだっていれば、勝負にあせる時、あるいは相手を軽視する時、無意識中こういう姿勢を取る。 中盤以後石と石がつづりあって読みに没頭する時このような姿勢が気楽なこともある。 だが、全局的に、全体を眺望する視線と姿勢が必要な時(そのような観点で囲碁に対してこそさらに遠く、広く勝負に臨むことができると考えるものの)私たちの選手たちは乱れた身振りを見せている。

このような姿勢がすでに一番楽になってしまった理由だ。 ささいな問題なのか。 極めて個人的な主観に偏った指摘なのか。 そうかも知れない。 それならこのような些細で個人的な意見もあると受け入れていただきたい。

中堅棋士は自身の見解を実名で使っても良いとまで言った。 もしかしたら、純粋に世代差にともなう見解の差であることもあるだろうが、後輩棋士が一回ぐらい確かめ合えばという心であろう。 なので幼い時から囲碁教室で道場でただ勝負だけを優先順位に置いて邁進してきたので知らず知らずの間に表れた習性、習慣のようなものが見えるといった。

化石のように、長時間いつの間にか、分からないで固まってしまったかも分らない、テクニックが上手の軌道に乗ればその時から紙一枚差の実力を分けるのは精神的な問題だと見る時、対局の姿勢-囲碁に対する心の姿勢は勝負と直結せざるをえない。

‘命をかけて置く’という趙治勲9段、彼の車椅子対局事例一つだけでもそういう‘激しさと情熱’を十分に感じることができる。 

今私たちの新鋭棋士は実力が中国の子供たちにはおよばなくて負けるのではない。 彼らに比べて‘姿勢’で遅れをとっているというのが中堅棋士の話だ。 1年前から国家代表チームを設けて再起を試みている日本国家代表チーム、その中でも自分たちの肩に日本囲碁の命運がかかったと考えて必死に飛びかかっている日本新鋭の覚悟がグロービス杯での成績に現れたのだ。


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この写真、片方はスーツで片方はジャンパーに運動靴姿だ。

新たに服装問題を論じようというのではない。 運動靴をはいた一選手の足と手の位置を見る。 まだ序盤だ。 序盤からふらふら足を揺らす様子が見えるようだ。

以前から我が国の勝負観、認識はそうだったようだ。 横道にそれても一番だけとれば良いことで、一番にどんな文句をつけることができるかと。

それで明らかに美徳ではないことなのに後学達がそれを美徳だと知って自然に受け入れ踏襲したこと、1,2つだけではない。 そういう認識の発露を一枚の対局写真で見るのはでないか。 本当に突然な話だと? そうだとしても‘あれじゃない?まあいいよ’式の話だけではないだろう。