※2011年8月の記事です。

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記者手帳/偉大な目撃

私の二回目の富士通杯出張だった。 去年の春が初めてだった。 富士通杯出張は私に日本出張という話と同じだ。 日本に違うことで行く機会は殆どない。 

海外出張は時に楽しい。 日常が繰り返されている時気持ちを切り替えて活躍役割をする。 頻繁な出張には体がだめになるが適切な出張は祝福だ。 私の場合、中国出張は行けばますます中国というのはよく分からないし、日本は出張に行くほどもう少しよく知るようになる。 よく分からなくなることが悪くて、さらに知るようになった方が良いという話ではない。 さらに知るようになることが悪くてさらに分からなくなった方が良いという言葉でもない。 いっそ分からなくなるほうが良いという心情になったりもして、ひとまず分かっておいて炊事をすれば良いことではないかで考えることもできるがまた、そのどのことといって役に立つだろうと確信できない。 そして決定的に、必ず‘役に立ってこそ’というのも疑問だ。 

知っていることと分からないことが必ず'役に立ってこそ'で連結されなくてはいけないか。 したがって私は海外出張に行くものの、知るようになるのと分からなくなることの区分を努めて押し倒して、役に立たなくても良い理由を自ら作って後悔しなくする。 


今回の24回富士通杯世界囲碁選手権大会が東日本大地震の関係で延期になった話、32強戦から16強、8強、4強、決勝までを5日ぶりに休まないで払う破格的な変身をしたという話などは記事でたくさん扱ったので大きく言及しない。 

それでも地震の話は少しの間しなければならないようだ。地震が進行された3月の日本は言葉どおり血なまぐさい場所だった。地震津波の被害にあったところは北東部(日本は東北部と表記したのです)に限定されたが、地震はより広い地域に広がったしさらに東京までも余震の影響を受けた。 

さらに恐ろしいのは福島第一原子力発電所損傷による放射能流出だった。 放射能の力は局地的でなかった。 風に乗って日本全域の上空と地面、そこに住む動・植物、人、水そして海を汚染させた。 それから次第に世界へ少しずつ広がった。 

4月にもしかしたら富士通杯は延期にならないで強行されたかも知れない。 そうしたとすれば中国と韓国など国家の棋士は日本に移動しなければならなかった。 日本が国家的な大きい悲しみに陥っていたが当時全世界から日本へ向かう飛行機はがらんと空いた。 

これは映画バック・トゥ・ザ・フューチャーの‘バック’に過ぎない話で、現実ではまた行ってみることはできない過去だ。 今回の富士通杯は延期になって8月に行われた。 開幕式なしで10日すぐに本戦1回戦(32強)に入る予定だった。 

私はいつ出国するのか考えてみていた。 韓国と日本がそのように遠い距離ではないので最大限遅くなので9日午後に離れても大会取材に支障はない(日程をこのようにギリギリに捉えるはずはないが). 

だが、記者は本戦開始二日前である8日日本に発つことにした。 韓国棋院関係者そして選手団一部と同行する日程だった。 早く出発するのは長所も、短所もある。 余裕あるように取材準備ができるということが長所だ。 短所ははやく到着しただけ良い取材の種を探さなければならないということだ。 もし良い取材の種を探すことができなければ‘無から有を創造’しなければならない負担ができることになる。 

‘気’は豊富なことだと予想した。 今回の富士通杯は既存と違い関西大阪で開かれるためだった。 大阪は韓国囲碁がそんなに注目しなかった所だ。 日本囲碁の中心は、日本の首都であり成績良い棋士が駆せ参じる東京市ヶ谷の日本棋院だ。 世界大会富士通杯も東京で行われてきた。 ところが予期しない災難で場所が突然西の方に移された。 

'気'で見ればこれは機会であった。 大阪に日本棋院の支部である関西総本部とそして日本棋院と日本囲碁界の二大協会中残りの一つの関西棋院があるので今までよく扱わなかったこの場所を取材すれば良かった。 ‘さあ、もう取材は大きな問題ないよ’ 

韓国選手団、ハン・サンヨル団長、韓国棋院次長とそして他方記者と集まった見解は8日正午であった。 仁川(インチョン)空港アシアナ便Kカウンターでプロ棋士が一名ずつ時間をおいて現れた。 大会に韓国は全7人が出場する。この日選手はチェ・チョルハン9段、パク・ジョンファン9段、カン・ユテク4段3人だけ出国した。 ホ・ヨンホ9段、イ・ヨング8段、キム・ジソク7段は前日7日に先に韓国を離れて関西棋院で入団したユン・チュンホ初段と合流したし、イ・セドル9段は9日出発することになっていた。 

空港で、出国手続をみな終えて出るとすぐに時間が浮き立った。 2時10分が離陸見解であったし40分程度残ったが、何をすることも曖昧な時間だった。 該当ゲート付近でそわそわするのにカン・ユテク4段とあった。 カン4段もちょうど徘徊して間を繋いだようだった。 カン4段はコーヒーが好きだといった。 私も一緒にコーヒーを売ってる所を探してみた。 ちょうどパク・ジョンファン9段も同じ場所で列をつくっていた。 三人で共ににっこりと笑った。 私がコーヒーを撮った。棋士に‘撮影’機会はたくさんない。 

搭乗が近づいてきた時は3人の棋士と冗談を言いながら椅子に座って待った。 チェ・チョルハン9段はネットブックを膝の上にのせてインターネットサーフィンをしたり放送を見たし、パク・ジョンファン9段はどこかに消えて現れた。 現れれば上手い手解答集を手に置いて解いた。 私は主にカン・ユテク4段と色々話す機会が多かった。 

カン4段は今回が富士通杯初めての出場だった。 富士通杯は世界大会だ。 新鋭であるカン4段には直ちにはいあがる機会の大会であった。 カン4段は十段戦決勝でイ・セドル9段に負けて準優勝し,韓国囲碁リーグ最多勝賞を受けたことがあって農心辛ラーメン杯代表になった大型ルーキーだ。 断定した身なり、謙虚な語調、確信にみちた表情. 顔に幼い若干の慎ましいことは彼の特徴だ。 対話を自然にすることが無理なほど内省的でもない。 

彼は文を書くのが職業である私を不思議に思った。 囲碁は自信があるが分量がない文を書くのにも彼は大変だという話をした。 

このような話を取り出すとは。 配慮が有難かった。 記者と棋士間には思ったより共通の話題が多くない。 

私はなんと答えたか詳しく思い出さない。 あらまし要旨を選んでみれば“私自ら現実と乖離した側面があって私が作成した記事が夢幻的に変わらないだろうか、それでさらにはストレート記事をファンタジーで書いてしまうのではないかという恐れがある”と文に向かった恐れを話したようだ。 どう思えば笑うほどの返事なのか深刻な性格のことなのかいったい何か考えで答えることなのか聞く人がこんがらかったり誤解するだけのことはあった。 また、質問の要旨を貫く正しい返事でもなかったのですぐ後悔が押し寄せた。 

幸いカン4段が笑った。 

対話というのは難しいことだと思う。 対話は私の世界と遠く落ちて存在するこれを囲んだ世界の領域が会ったり交差する様相に進行される。 楽しみと憎しみ、感動、時期、喜び、歓喜、不快さが混ざって交感する。 人々はこれを毎瞬間試みてこれが切れれば挫折したりもする。 このようにとても難しいことを彼と遂行していった。 

カン4段の携帯電話の話もした。 アイフォンを使うのかと尋ねたところそうではないと答えた。 私は、ちょうどサイバーオロでアンドロイドOSを使うスマートフォン用 <오로바둑> アプリケーションがちょうど出てきたことだし知らせようとした。 しばらく話しているがカン4段が表情が戸惑う。 彼の携帯電話はスマートフォンでなくフューチャーフォンだった。 

私は話を変えてどんなスマートフォンを使えば良いだろうか色々な情報を与えた。 滑稽だ。 私もスマートフォンを使って何ヶ月にもならないのにあえて誰かに説明をするというとは…

搭乗ゲート近くに座ったチェ・チョルハン9段はネットブックを依然として膝に持ってうれしがっていた。 私たち皆は入って長く引き伸ばしたことと近寄って、一行中1人のアイパッドを手に高く上げてそれで写真を撮ってげらげら笑いながら徐々に旅客機側に進入した。 




日本に到着した。 

大阪関西空港に到着して宿舎とするホテルまで移動するためにリムジン バスを待っていた。 一日中日光が最も強烈な時をすぎていた。 選手たちの頬に鼻影が長く引かれた。 顔を一つずつ覗いて見て見たら、パク・ジョンファン9段が消えた。 何の話もなしで。 

'オ、どこへ行っただろう?‘

お手洗いに行ったかと思ったが永らくこない。 率直にパク9段は口数が少ない方なので道に迷ったのではないかと不安になった。 

パク9段はバスが出発する前皆がいた所に戻った。 白いビニール袋を持っていて袋が開かれるとすぐに一行皆が思い切り飲める程飲み物が入っていた。 パク9段は微笑を浮かべて飲み物を回した。 パク9段は微笑は作るが何も言わなかった。 

私はどうしても同行した選手たちを中心に多くのことを考えた。 ‘誰が優勝するだろうか’直ちに目の前に見えるあの三人から調べよう。 

チェ・チョルハン9段、パク・ジョンファン9段、カン・ユテク4段. いつ世界大会で優勝しても遜色がない棋士と見えた。 いくら考えても分からなかった。 

バスに移動する間車窓の外の空と海が真っ青だった。 

計画と違いこの日すぐに取材に出ることは難しいように見られた。 宿舎に到着するとすぐに即座に薄暗い。 大阪の地理に明るい人は一行中には一人もなかった。 棋士は阪急インターナショナル ホテルに行ったし私はそこから徒歩で10分程度の新阪急ホテルに泊まった。 

夜に、歩いて周囲地理を習った。 複雑だった。 地図はそれほど役に立たなかった。 梅田駅近所、'阪急三番街'という有名な繁華街であった。 通りはきらびやかだった。 地下鉄付近には無名女性ロッカーがスピーカーと音響機器をおいて即席公演をしたし過ぎ去った人達が周囲をぐるっとまいた。 道行く人もほとんど若者たちだった。 





本戦1回戦前日9日、組まれた取材日程はなかった。 時間をどのように使うのかは私にかかっていた。 初めての目標は大会場である日本棋院関西総本部を訪ねて行ってみるということだった。 ホテルを出るのに靴底が上側に広がってガタガタ揺れた。 足を少しでも高く上げれば靴底がだらだら流れたし次の歩みに靴底が折りたたまれて踏まれた。 韓国で古くなったが何故日本で壊れてしまったことか。‘アラ…’

ホテルの前の大型マートで新しいもの一つ買おうと決心した。 そして売り場遠くに横目でにらんだ目で価格表を調べた。 私はあきらめて帰ってきた。 概略私たちのお金で25万ウォンを遥かに越える価格だった。 幸いホテルで3分の距離もならない所に靴修繕屋があった。 大いなる幸いだった。 

地図でわかりやすい指標だけ歩いてかろうじて日本棋院関西総本部に到着した。 たくさん迂回してきたが間違いなかった。 事実そのように宿舎で遠い距離ではないが、近道を行くところを分かったことは長い間の時間が過ぎた後であった。 確かめてみると歩いて10分かからない距離であった。 

日本棋院関西総本部の看板はとても小さくて探すのに難しかった。 ファイブアネックスという建物の6階と11階を使った。 11階にはプロ棋士のための対局室、検討室、応接間があって6階には事務局と一般子供のための囲碁講義室、書籍コーナーなどがあった。 3階では窓の外に地下鉄レールが見えた。 東京日本棋院よりは規模が小さかったがすっきりしていて色とりどりだった。 

事務局には日本の金星井山裕太9段のフィギュアが歓迎する。 フィギュアはげんこつの大きさほどだが笑っている。 井山9段は関西総本部所属だった。 住む所も地下鉄でいくつかの停留所距離にある。 書籍コーナーには井山9段の写真が明確に表紙に打ち込まれた本から配列されていた。 井山9段は日本の自慢でもあるがその中でも関西総本部が最も自慢する金星であるように見えた。

韓国選手7人皆、大阪、日本の西側は慣れてないところだった。 関西棋院に入団したユン・チュンホ初段は韓国選手の耳と口になってくれた。 概してユン初段と選手団は夕食を一緒に食べた。

イ・セドル9段は日本にくれば'ココイチバンヤ'を探す。

日本で最も有名なカレー専門店で本当にどこへ行っても目につくといっても過言ではない。 恐らくイセドル9段がカレーマニアというよりは口に合う食べ物を探したのではないかという気がした。 





32強戦が広がった10日、ホ・ヨンホ9段、イ・ヨング8段、カン・ユテク4段3人の韓国選手が脱落した。 カン4段は最大難敵中国シエホ7段に会って敗れた。 韓国棋士に強気を見せている棋士であるだけにある程度覚悟はしたが惜しかった。 イ・ヨング8段は負けたがすがすがしく笑った。 

誰か負けなくてはいけないのは勝負世界の決まった道理だ。 敗北は存在するしかないから準備しなければならない。 イヨング8段の笑いが見る人の胸をなで下ろすようにした。 

昨年浦項(ポハン)で開かれた韓中天元戦でライバルに敗北にあったチョニャオイェ9段が思い出された。 当時チョニャオイェ9段はライバルで指定されながら決して負けたくなかった相手パク・ジョンファン9段に1-2で敗北した。 終局してあのように苦しがる棋士は初めて見た。 

彼はやっと復碁を継続した。 碁盤に気絶して倒れるかと思って心配になるほどであった。 チョニャオイェ9段はその日夜関係者たちと食事をしながら顔色が明るかった。 ‘どうなったんだろう?’
私が“今日の敗北が耐え難くないか?”と尋ねるとすぐに彼は“私は若くて、対局しなければならない多くの日々が残っている。 ずっと苦しんでばかりいることはできない”と答えた。 対局場とは完全に別だった。 

富士通杯で敗北の苦汁を飲みほした韓国選手がそうした。 敗北の苦痛が激しかったが勝ち抜いて笑った。 もちろん負けた瞬間は大変だが早期に再び立ち上がらなければならない。 そう出来なければ永遠に座り込むこともできる。 
私は考える。 おそらくプロ授業を受ける学生たち皆が敗北を耐え抜く練習をしていると。 さらに遠く飛ぶためにその練習をすることだと。 

同日コンジェ9段とイ・セドル9段など前期優勝準優勝者などは巡航した。 その時までしてもコンジェ9段やイ・セドル9段が落ちるという考えはよく入らなかった。 いや前回のように決勝で会うかも知れなくて…という推測がより大きかった。 

32強で最も遅く終わった時は日本井山9段対中国古力9段の対局だった。 井山9段は序盤から敗色が濃厚だった囲碁を逆転させて古力9段を本戦1回戦で脱落させた。 関西総本部がざわざわした。

井山9段はこの大会最高の話題であった。 もちろん韓国報道陣には韓国の成績が最も関心だったが井山9段の善戦は新鮮だった。 日本は毎年開かれる権威ある授賞式で数年国際上の受賞者がない。 張翔9段も国際舞台でなかなか良い成績を出せないで久しくて、山下9段も同じだ。 

そのために井山9段がサカイ・ヒデユキ8段と一緒に8強に進出したことは日本に大きい力になった。 そのように日本囲碁ファンたちの期待を受けた井山9段が世界大会8強成績が生涯初めてとは…. 井山9段は後ほど4強まで上がった。 その時日本が浮き立った姿を久しぶりに見た。 

記事を全部使ったら夜ごと歩いた。 ホテルはとても施設が良かったがなぜか苦しかった。 外は夏の夜の湿気がすごかったがそれでも苦しいことはなかった。 

距離には酒場客引きの案内を持って歩く青年たち、おばさんそして飲食店前に立ってお客さんを集める20代始めのお嬢さんが叫ぶ声で沸きかえった。 パチンコ店も盛況だった。 ガラスドア内側でネクタイを締めてアタッシェケースの同じ物を自身の椅子のそばに下ろしてパチンコ機械と取り組む人たちが見えた。 時々ドアが開けば轟音が道路に溢れ出て門が閉められれば終わった。 私は'ドンキホーテ'という巨大なコンビニエンスストアで水だけ買って道を通ってホテルに戻った。 

16強戦が進行された11日には速報を採用しない関西棋院に行ってきた。 関西棋院までは地下鉄と徒歩を含んで20分程度かかった。 イ・セドル9段が短い時間に勝利して行ってきてみるとすでに対局が終わっていて速報も遅れた。

それでも関西棋院には必ず行ってみたかった。 今後二度と機会がないのかも分からないためだった。 関西棋院のそばでは美しい川が流れる。 ちょうど本戦対局室ではプロ棋士が対局中だった。 1階では富士通杯公開解説会が開かれていた。 広くない場所であり観客席に空席は殆どなかった。 ユン・チュンホ初段はプロ棋士である女性進行者の美貌をほめた。 急いで帰るため写真だけ撮ったが、行ってみなければ関西棋院は依然として漠然としたイメージで残っていただろう。 

13日4強戦、意味深長な韓-日戦が繰り広げられた。 8強でイ・セドル9段がチェジュイン8段に負けて落ちながら韓国はパク・ジョンファン9段1人だけが生存したし、久しぶりに世界大会跳躍を夢見る日本の期待を肩に担いだ井山9段が激突した。 残りの一勝負は中国棋士どうしの対局だった。 

韓国ファンたちはコメントを通じて去る夜サッカー韓-日戦で韓国がどれくらい最低の成績を広げたのか糾弾していた。 イ・セドル9段とユン・チュンホ初段もサッカー中継を見ながら面白味で最終スコアを当てることをしたが韓国が大敗するとすぐに中だけさく烈した。 

サッカーで勝った日本は大騒ぎだった。 青年たちが通りに飛び出して何か叫びまくった。 祭りの雰囲気であった。 
残酷なサッカー敗北とかみ合わさって富士通杯4強韓-日戦が広がったことであり、サイトではサッカーの代わりに雪辱してほしいという応援も出てきた。 

パク・ジョンファン9段は序盤苦戦した。 そのままならば負けるということだった。 韓国報道陣は不安だった。 日本まできたが、韓国選手中一人も決勝に行けないならば本当に気が抜けることであるはずであった。 

パク9段は勝負に出てきた。 揺さぶることを広げ少しずつ通じたし後には完全に主導権を握った。 追う者と追われる者の立場が完全にさかさまになった。 パク9段は中押し勝ちした。 

彼は通常の時とともに静かに復碁したし静かに対局場を離れた。 インタビューは丁重に遠慮した。 4強だとインタビューする段階ではないということだった。 4強は良い成績だが韓国で1人の選手だけが残った状況でパク・ジョンファン9段は優勝までやり遂げなければならなかった。 当初の目的でもあった。 

井山9段はインタビュー洗礼を受けた。 今まで抑えられてきた日本ののどの渇きを彼が解いた。 世界大会4強記録は3年ぶりだった。 

エレベーターで彼に“中盤まで有利だったので物足りなさが大きいだろう”と話しかけたところ、彼がひそかに笑って“残念だ”と話した。 
日本の井山9段は韓国ファンたちに良い印象を植え付けた。 力なく負けた日本に井山9段のような立派な若い強者もいるという存在感を知らせた。 

今回の富士通杯が進行される時韓国でチョ・フンヒョン9段はイヤマ9段の囲碁に関心を見せた。 大韓生命杯子供国手戦に参加したチョ9段は時間がある時はわざわざノートブックがある所を探してイヤマ9段の囲碁を注意深く見守った。 チョ9段は周囲の人々にイヤマ9段の囲碁を解説することさえして“イヤマは他の日本棋士らと読み取りが違う”としながら高く評価したという。 

富士通杯4強の面々は新しい時代が到来したことを知らせる序幕に映った。 韓国パク・ジョンファン9段、日本イヤマ9段、中国チェジュイン8段とジャンウェイ5段. 
イ・セドル9段、古力9段、コンジェ9段など世界大会を交代して占めた世界囲碁の‘屋根’の姿が見られなかった。 

多くの世界棋戦がみなそういう様相ではないが世界囲碁の地形が揺れ動いていることを感知することができた。 

韓国記者団がちょっとすまないと思った棋士がある。 ジャンウェイ5段だ。 知名度が高まって古くなった棋士ではないが厳然な中国名人で、今回の大会で囲碁も良い内容をたくさん見せたがスポットライトを相対的にあまり照らさなかった。 

力がとても良いと感じた。 ほとんどすべての時で彼は大石追撃戦を行ってほとんど成功した。 特にシエホ7段の大石を捉えたことは十分に壮観だった。 名人は誰でもなるのではないというのを彼の囲碁で感知することになる。 




決勝戦を控えてゆっくり寝ることにした。 決勝戦には取材量が増える。 対局の重量感を反映して速報を上げる間隔もさらに狭める心づもりだった。 体力をたくさん使ったし非常に疲れた。 まだ幸いなのは対局開始が11時なので余裕あるように準備できるということだった。 

あにはからんや5日連続で本戦が進行していた。 対局者の疲労も極度に深刻な状況であることだった。 一日ぐらい休んだらどれくらい良いだろうかと切実に望んだ瞬間がこの時であった。 後日、優勝者インタビューの時パク・ジョンファン9段も“今したいのは”という質問に“休みたい”と答えた。 

14日決戦の朝、いや、朝とお昼の間の11時、パク・ジョンファン9段が大きい身長から出る大きい歩みで対局室に入場した。 紙コップの水を一杯飲むとじっと碁盤を眺める。 十個余りのカメラ レンズが彼を狙うのに全く気を遣わないようだった。 パク9段は頭を包み込んで頭を碁盤に完全に落とし込んで再び正座した。 やがて中国棋士が現れた。 ジャンウェイ5段は3位決定戦が広がる所に行ってチェジュイン8段がこちらにきた。 チェジュイン8段は左右にからだを大きくさまよって歩く。 席に座ると顔をある力いっぱいしかめる。 本戦終始見せた姿だ。 

パク9段とチェジュイン8段の動作一つ一つを注目した。 パク9段は碁盤を凝視してときおり相手を見た。 相手を見る時間は限りなく短い瞬間なのに瞳の輝きが若くて背筋が寒くなる。 

チウジュィン8段は上着を脱いで自身の椅子にかけると再び座った。 チウジュィン8段は日本棋士の間では‘根気の化身’で認められていた。 

チウジュィン8段はどんな不利な状況でもしつこく追撃する。 新型に明るいのはものすごい研究熱心のためだと見られる。 

パク9段も囲碁研究すれば敗れる人ではないが、偶然にも序盤で新型変化が繰り広げられた。 ここでパク9段は若干失敗をする。 多少緩かった。 緩いことは直ちに敗北を意味しはしない。 だが、小さい差を最後まで克服できなければ結局負ける。 濃厚な雲が集まっていた。 

ノートブックで速報を使うのにインターネットがとても遅かった。 一部記者と囲碁TV PDはホテルに行ってファイルを転送したり送稿してきた。 ホテルもそんなにインターネットが速いほうではなかった。 こうした時ならば韓国のインターネット環境に感謝することになる。 

日本は猛暑注意報が下されていた。 強烈な太陽の光が道路の自動車の屋根を暖めたし道を歩く人たちはだらりと垂れた。 あちこちで暑さで誰が死んだというニュースも出てきた。 

近ごろパク9段はスランプを体験した。 KBS囲碁王になった時彼は無敵なようだったが、突然暗いトンネルに入ったのだ。 4月から6月の間には7連敗をしたりもした。 別の人になったようだった。 そうするうちに悲惨な状態を抜け出したばかりでした。 

パク・ジョンファン9段は厚い囲碁を駆使する。 彼はいつか"厚いということがあればなぜか負けないようだ。"と話したことがある。 厚いことで実利獲得、攻撃にあまねく活用するのにその運用が創造的だ。 

パク9段は右辺から頑張り始めた。 龍3匹が空中で湧いてからまったような戦いで白石を叱った。 ついに下辺白は死ぬ直前まで行った。 

ユーチューブとともに脚光を浴びるユーストリームでは対局者の息遣いをデジタル データに伝えた。 ユーストリームの中の二人の対局者は曇って見えるが、動くようだったりそうではないようなこともした。 

絶壁最後まで追い出されたチウジュィン8段は1線の妙手を出して奇蹟のように生き返った。 チウジュィン8段の見た姿だった。 'チウジュィン恐怖'がよみがえった。 直線で捉えに行って失敗したパク・ジョンファン9段はどうなるということなのか。 

パク9段は分からないテンポに動き始めた。 揺さぶることの開始だった。 下辺で左辺で、左辺で中央に移動して戦闘が広がったがそのすべての接戦でパク9段は成功を収めた。 
やがて後半、パク9段が左辺で中央につながった巨大な白大石の息の根を止めたし囲碁も幕が降りた。

記者たちはいっせいに対局室に向かって走った。 日本ケーブル放送'囲碁・将棋チャンネル',読売新聞、週刊碁でも取材競争を行った。 日本はパク9段の年齢が18才しかならないのに注目した。 現在の世界最強というイ・セドル9段が富士通杯で初優勝する当時19才であったのに、彼よりも幼かった。 富士通杯史上最年少チャンプの登板だった。 

パク9段は富士通優勝カップを上げて笑ってポーズを取った。 カメラが多くて永らく待っていなければならなかった。 優勝カップが重くてますます手が下に降りて行くとすぐに恥じて笑った。 そして軽い気持ちでインタビューに応じた。 誰かがイ・セドル9段とパク9段を比較してくれと言うとすぐに彼は"私はイ・セドル9段に比較すればまだまだだ"と自ら低くした。 

この日新しい帝王を目撃した。